「稽古」という日本古来の考え方から現代の仕事の向き合い方を考える―京都大学 名誉教授(上智大学グリーフケア研究所 副所長)西平直氏
日本の伝統的な武道や芸術において、技術の修得・向上のために行われてきた「稽古」や「修養」。日本古来の知恵ではありますが、現代社会での仕事の向き合い方や、スキルの高め方などに参考になる考え方です。
本記事では、教育哲学や東洋的身体知の世界に精通している上智大学グリーフケア研究所の西平直先生に「稽古」の考え方や、いかに職場や仕事に取り入れていくことができるのかを伺いました。
西平 直(京都大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所副所長)
信州大学、東京都立大学、東京大学で学んだ後、立教大学講師、東京大学助教授、京都大学教授を経て、2022年より現職。京都大学名誉教授。専門は、教育人間学、死生学、哲学。稽古・修養・養生など日本の伝統思想を研究。著書に『世阿弥の稽古哲学』(東京大学出版会、2009 年)、『無心のダイナミズム』(岩波現代全書、2014 年)、『稽古の思想』・『修養の思想』・『養生の思想』(春秋社、2019・2020・2021年)など。
目次
稽古とは?「練習」「修行」との違い
スキルの修得だけで終わらないのが「稽古」
Q.まず「稽古」にはどういう意味があるのでしょうか。よく使われる「練習」「修行」などの違いについて教えてください。
西平:稽古では「技を磨く」という点が重要です。「スキル」を修得する。その点が「修養」や「修行」とは違います。「修養」は、「スキルの修得」がなくても、ロールモデルとなる師匠を見習い、あるいは一人で努力して、学ぶことができます。「修行」は、内面性の成熟に重きを置きますから、この場合も「スキルの修得」がなくても可能です。
それに対して、「稽古」は「技を磨く」。それを通して、その一歩先を突き詰めてゆきます。そこに「内面を磨く」行為も含まれます。では、この内面を磨く行為の「中身」は何かと問われると、人によって内容が異なり、具体的に言語化しにくいところがあります。そのため、今は、「稽古」は「スキルの修得+α」であるという答えに留めておきます。
なお、スキルを磨くという意味では、「稽古」の他に「練習」という言葉も存在します。この2つの言葉を英語で訳し分けることは、簡単ではありませんが、私は、「練習」を「lesson」や「practice」、「稽古」を「exercise」「expertise」と訳しました。expertiseには、高度な技術・知識という意味があるので、「稽古」における専門的技術を熟達していくという意味が合致していると考えました。単なる技術修得ではなく、人間性(内面)を磨くという意味も含まれています。
練習との比較でいえば、「練習」には最終ゴールが存在します。それを達成すれば、もう練習をしなくてもよくなりますが、「稽古」の場合は終わりがありません。名人になってもやはり同じ稽古を続けます。言い換えれば、「稽古」は「原点に戻る」という意味を持ちます。毎回ゼロ地点に戻って、そこから出発し、技を磨き、修正していくのだと思います。
「稽古」で目指すもの
西平:また「稽古」は「技を磨く」行動に留まらず、アートへと昇華していくことができるという点も特徴です。仕事でいえば、学んだ技術(スキル)を活用するだけでなく、自分にしかできない技術(アート)へと昇華し、さまざまなシーンで活用できるように応用していくイメージです。
「アート」の域にまで上達するためには、実は、一旦自分が持っている技術(スキル)から離れる必要があります。室町時代に能を大成させ、芸術・技術の理論書「風姿花伝」を著した世阿弥は、これを「無心の舞」と表現しました。反対に、慣れ親しんだ「技術(スキル)」だけにこだわりすぎると、どれだけ年月をかけてもアートに達することができず、むしろ逆効果になってしまいます。「稽古」には終わりがありません。どれだけベテランになっても、稽古し続けることによって、自分らしい技術に昇華することができます。
「成功」の先にあるもの
達成することを目指すのではなく、「あるべき理由」「あるべき姿」を考える
Q.仕事で「技術(スキル)」にこだわりすぎてしまうのは、どういうシーンでしょうか。
西平:短時間で結果を出さなければならない仕事のように、外からの評価を気にせざるを得ない状況があげられます。そういう場合は、怖くて、目の前の技術(スキル)を手放せなくなります。反対に、長期スパンで評価を見てもらえる環境であれば、「アート」と呼ばれる自分らしい技術にチャレンジできると思います。
もう1つ、「成功」と「成就」の違いも重要です。世阿弥によると「成就」は、「しかるべきプロセスを経た後に落ち着くべきところに落ち着く」感覚です。そこで、「成就」には「やるべきことはやった」という納得感が含まれます。あるいは、達成感や充実感や安堵感などが含まれます。
「成就」は、「成功」より、本人の内面に影響されます。たとえば、「誇り」を英訳すると「honor(オーナー)」といいますが、自分のやったことに「I’m honored」と胸をはって言えない場合は「dishonored(恥ずかしい、情けない)」です。そうした自分の正直な気持ちを大切にするのが「成就」です。「成就」の方が本人の内面との結びつきが強いと思います。
企業の役員にまでなった知り合いの話から、こんな話を聞きました。その人は、若いときに上司から、「出世することを目的にしたら駄目だ」と言われ続けました。そうではなく、課長になったら「何をしたいのか」、部長になったら「何をするのか」と、何度も何度も訊ねられた。当時は「なんて説教くさいことをいうんだ」と半ば聞き流していたのですが、上の立場になって、ようやくその意味が分かるようになった。そして、そういうことを言ってくれた上司が本当にありがたかったと、思うようになってきたと言うのです。
先の「稽古」と「練習」の区別と重ねて言えば、「稽古」における「終わりがない」という話と重なってきます。「成功」は、目標を達成すれば終了する「練習」と似た発想です。それに対して、「稽古」は、名人になっても、同じ稽古を続ける。ですから、外からの評価と同じだけ、自分自身の内面的な納得感が重要な意味を持つのだろうと思います。
過剰に「タイパ」を求める弊害
どこででも同じパフォーマンスを出すために、ポータブルスキルを修得する
Q.最近は、若い人たちを中心に「タイパ」を求める傾向が強くなっているように思います。一見すると「型」というものを知らずに結果を求めているように見えますが、稽古という視点から見ると、その行為はどのように見えますでしょうか。もし、よくないとしたら、どういう弊害があるでしょうか。
西平:若い人たちが「タイパ」という考え方をするようになったのは、「何かを大切にしたい」という思いと関連しているように思います。数年前に「ブルシット・ジョブ」という言葉が流行りました。直訳すれば「牛の糞のような仕事」です。
たとえば、穴を掘って埋める仕事を考えます。まず、「穴を掘る」とお金がもらえます。翌日、その穴に土を戻して埋めると、またお金がもらえます。その翌日、また穴を掘ると賃金が支払われ、その翌日、穴を埋めると賃金が支払われる。お金こそもらえますが、この作業は何の結果も生み出しません。
こうした生産性のない仕事を「ブルシット・ジョブ」と呼ぶわけです。本人も、こんなことをしても何の役にも立たないと理解している。周りのみんなも分かっている。でもその作業に賃金が発生するので、みんな続けているわけです。
現代社会、特に1980年代後半から1990年代初頭に続いたバブル景気は、こうした状態でした。やっていることにどういう意味があるのか。そんな野暮なことは問わずに、ともかくバブルの波に乗ることだけを考えていたわけです。
バブル崩壊後に「ブルシット・ジョブ」が注目されるようになりました。「コスパ」や「タイパ」も同じ流れの中で生まれてきたのだと思います。その意味では、タイパを気にするのは、無駄な時間を排除して、大切にしたい何かを持っているからだと思いますから、私も「タイパ」には、ある程度、共感しています。
しかし、それと入れ替わるように、「型」の発想を持たない若者がますます増えたように思います。ここでいう「型」とは、「土台」という意味です。自分を上から制約するのではなく、身に付けた技術を次に進めるための「踏み台」になるものです。現代は、その意味における「型」が求められていると思います。
たとえば、2006年に経済産業省が提唱した「社会人基礎力」 は、3つの能力と12の能力要素から成り立ちます。社会人として仕事を進める上で必要な基礎的能力のことです。人材の流動性が高まる社会において、1つのことにだけ適用できるスキルでは、いずれ使い物にならなくなってしまいます。そこで、転職などにより現状の職場とは違う場所に移り変わったときでも、長きにわたり適応できるような「土台」となるポータブルスキル(基礎力)が大事になってきます。
そうした「土台」となる社会人基礎力のような力を活かすには、「夢中になれるもの」を持つことが大切です。それは趣味でもいいですし、仕事でも構いません。そうした夢中になって取り組む経験が、基礎力を付けることにもなるし、基礎力を応用に転換することにもつながると思います。
ところが、「タイパ」だけを意識しすぎると、なかなか「夢中になる」ことができません。夢中になれるものを見つけるためには、無駄なことも含めて、それなりの時間が必要になってくるからです。
夢中になるものを見つけるには?
Q.夢中になれるものを見つけるのは、そんなに簡単なことではないですよね。
西平:難しいと思います。昔であれば、職場が徒弟制度になっていて、師匠(親方)をロールモデルにして取り組んでいくうちに、仕事への興味が高まり、夢中になることができました。現在はロールモデルが身近にいないため、夢中になれるものを見つけられなくなっています。夢中になれるものがない人たちは、基礎力(土台)の大切さが分からないため、スキルを磨くことだけに終始してしまいます。
教え子の中には、受験勉強が楽しかったという学生もいました。その理由を訊ねると、「偏差値が上がっていくことが難易度の高いゲームをクリアしている感覚になり、ワクワクしながら取り組んだ」と言います。
学生時代は、その感覚でも良いのですが、そのまま会社に入って出世して昇給することが楽しい感覚でいると、どこかで壁にぶつかる恐れがあります。私の理解では、「成績が上がる」「昇給・昇進していく」というのは、言ってみれば、現状に上塗りしていくようなものです。自分と向き合って、中身から変わっていくこととは大きく異なるように思います。
夢中になり、本気で取り組むようになると、現状と理想とのギャップを認め、その差を埋めるために、自分を見つめざるを得なくなります。単に上を目指すのではなく、上の立場になったときに、「どうしたいのか」「何になりたいのか」を考えます。「夢中になる」とは、実は、そうした内面的な問い直しとワンセットであるように思います。
チームを意識することの強さ
「自分中心に考えない」ことと「自分で責任をとる」ことを両輪で意識する
Q.西平先生は、著書『稽古の思想』にて正統的周辺参加からの場のポテンシャルエネルギーを活かすことが大事だとおっしゃっています。この環境を実現するには、どのようなことが必要になるでしょうか。
西平:まず、「正統的周辺参加」とは、先輩について仕事の流れややり方を覚えたり、簡単な業務を手伝ったりするOJT研修のようなことです。若手からすれば、自分が所属しているチーム(組織)を身内に感じられるかどうかが、技術をアート(プロフェッショナル)へと昇華していく上では非常に必要だと考えています。
たとえば、サッカーでは「おとりのプレー」というのがあります。味方のプレイヤーが良い状態でパスを受けられるように、自分はボールに触らなくても相手のマークを引き付けた動きをすることです。こうした動きができるためには、チーム全体の動きを俯瞰してイメージする必要があります。このように、仕事においても、チーム(組織)として同僚と連携して取り組むことで、シナジー効果が生み出せます。これが場のポテンシャルエネルギーを活かす1つのモデルです。
その場合、大切なのは「自分中心に考えない」ことです。あくまで、チーム全体で良い結果を生み出すことを最優先に取り組みます。たとえば、空手や剣道などの個人競技であっても、道場にいると、チームを意識すると思います。たとえ個人競技であっても、「自分を中心にしない」という感覚を学ぶ機会になっているのだと思います。
その一方で、「自分で責任をとる」という側面もあります。誰かに頼るのではなく、自分が責任を引き受け、与えられた役目を全うする。それは先ほどの<自分を中心に考えない>ことと相反するように見えます。一方は<自分を中心にしない>、他方は<主体的に自分で決める>。そうした異なる2つのベクトルが葛藤しながら共存し合うことで、人間性を含めた技が磨かれていくのだと思います。
技術を磨く前に、理性や感性という確かな器を身に付けること
Q.最後に、「新しい働き方に興味ある方」や「今の働き方に悩んでいる人」などに対して、メッセージをいただけますか。
西平:先ほど、「夢中になれることを見つけることが大事だ」と言いましたが、社会人基礎力のような土台づくりと同時に大切なのは、理性や感性を磨くことです。人は、何かを受け入れる際に、自分の考えや価値観から大きく影響されます。
そうした理性や感性は、子どものときからの親の影響を大きく受けます。しかし、大人になってからでも高められます。世阿弥は「器の上に芸を盛る」という独特の表現をしました。理性や感性という「器」の重要性を説いているわけです。
器が小さいと、いかに稽古を重ねても、芸(技術)はその器の大きさに制約されてしまいます。芸をどれほど稽古しても、アート(その人固有の技術)に近づかないことと同じです。反対に、理性や感性の「器」を磨いておくと、芸となる技術やスキルを高めて、幅広いことにも応用できます。今の働き方に迷っている若手社員や業務がマンネリ化して伸び悩んでいる管理職には、理性や感性を磨くことをおすすめしたいと思います。
個人的には、アジアなど、価値観や文化の異なる国への一人旅がおすすめです。日本の生活水準や社会の土台は、欧米の後を追いかけてきたので、アメリカやヨーロッパに旅をしても、それほどのカルチャーショックは受けません。しかし、東南アジアなどを訪ね、そこで一生懸命に生きている人たちに出会い、その人たちから助けてもらうような経験をすると、大きく価値観が変わります。それによって、新たな理性や感性をインプットできるはずです。ぜひ一度チャレンジしてみることをおすすめします。
編集後記
今回は、教育哲学や東洋的身体知の世界に精通している西平先生に、日本古来の文化に根ざした「稽古」による自分にしかないスキルの修得法や壁の乗り換え方、人間性の磨き方について伺いました。
大手企業を中心にジョブ型雇用が進められているものの、多くはジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の中間に位置するような働き方が主流です。こうした組織では、チーム(組織)の一員として他のメンバーと連携できるので、「自分中心にならない」ことと「自分で責任をとる」ことの両方を意識しながら取り組めます。
また、若手社員の場合、スキル(技術)磨きだけに走るのではなく、スキルと理性・感性の両軸を高めていくことで、さまざまなフィールドで活躍できるアート(自分らしいスキル)を身に付けることが可能になるのではないでしょうか。