交通網が発達した現代では、海外留学や海外での就労・生活は、以前より身近な選択肢になりました。しかし「視野が広がる」「成長につながる」と語られやすい海外での経験は、キャリアの観点から見るとどのような意味を持つのでしょうか。
海外で働くことは、日本の労働市場から別の市場へと移ることを意味します。そこでは、日本で積んだ学歴やキャリアが必ずしも通用しません。また、日本に戻る際にも、海外経験が正当に評価されるとは限らない現実があります。個人はどう備え、企業はどう受け入れればよいのか。日本人のグローバルキャリア形成を研究してきた上智大学経済学部の細萱伸子教授に聞きました。
※本稿における海外での就労経験は、自社社員を海外に派遣・出向させるような「企業派遣」ではなく、ご自身で海外に行かれる方を指します。
細萱伸子
上智大学経済学部経営学科教授
専門は人的資源管理論、キャリア研究。日本人の海外就労やグローバルキャリア形成、企業における人材マネジメントを主な研究テーマとしている。 近著に『グローバル日本企業のHRMの強さの探求―組織成果、レジリエンス、ESG―』(共著、文眞堂)
異なる労働市場でキャリア形成を考える
質問:海外で働いたり暮らしたりする経験をキャリア形成として考えるとき、どのような視点が重要になるのでしょうか。
細萱:海外で働く、暮らすということについては研究がたくさんあるのですが、キャリアの観点と自己実現の観点、よく「キャリア」と「プレジャー(娯楽)」みたいな言い方をしますが、この2つから考えられるというふうに言われています。
経営学領域の研究では、企業によって派遣される海外赴任者と、自発的に海外で就労する方は明確に区分されていますので、今回は後者の方を念頭にお話していきます。私がそうした方々を調査していたのはコロナ前ですので、現在は状況が変わっているところもあるかもしれません。ただ、原則的に考えていくと、あまり変わらないのではないかと思うことに絞ってお話をしていきますね。
企業が自社社員を海外に派遣するような場合には、企業のアサインメントに則って仕事が決まっており、費用負担も安全管理も企業側で行われます。自己主導で海外にわたる方の場合には、そうしたことが決まっていませんので、すべて自分でサーチしながら進んでいくことになります。自由度も大きい分、リスクや努力部分も大きいし、メンタルや心構えも大きく異なります。それで明確に分けられて研究されてきました。
海外に自発的に働きに行かれる方についての研究は、「なぜ行くのか」と「行った後に何が起こるのか」という2つの論点から主に論じられてきたと思います。「キャリア」と「プレジャー(娯楽)」でいうと、「キャリア」というのは、どちらかというと「なぜ行くのか」という目的やその経験の職業的な効果、メリットなどの成果の側面に注目した際によく出てくる論点です。「プレジャー(娯楽)」というのはもちろん自分がその場所を楽しみたいとか、そこで暮らしてみたい、職業上の経験というよりは生活上の経験としてということになります。
よく海外の経験は「視野が広がる」「成長につながる」と語られますが、視野というのが人生上の視野なのか、職業上の視野なのかを区別して考えることが重要です。成長についても同じで、実態としては表裏一体に思えても、経営学の研究という観点では、人生における成長なのか、職業における成長なのか区別して考える必要があります。
そのうえで、キャリアの側の留意点として言えば、マーケットとの関係性や、雇い主との関係性が重要になってきます。一概にキャリアだけが大変ということではないのですが、自分の意思ではコントロールできない部分が生じやすいという点では、キャリアのことを少し用心深く考えて、行き先なども吟味しておくことも重要だと思います。
受け入れ先の市場を理解することがキャリア形成の第一歩
質問:海外でキャリアを築いている人の中には、単に環境に適応しているだけでなく、自らの立ち位置を主体的に作り出しているケースもあるように思うのですが、海外でキャリア形成がうまくいく人は、どのようにして自分の価値を発揮できる環境やポジションを築いているのでしょうか。
細萱:海外に行って働くときに何が起きるのかという観点でお話すると、大きく2つの問題が生じます。1つは文化的・心理的な適応の問題、もう1つは職業的な適応、つまりどういう仕事に就くのかという問題です。
どんな人であっても、経験のない場所と職場で働くとすれば、この2つの問題はどちらも大変なのです。異文化への適応と、新しい仕事への適応、その両方が同時に求められるわけですから。
この点を考える際に、キャリア資本(キャリアキャピタル)という概念を使うと表現しやすいです。キャリア資本は、
- Knowing Why(なぜ働くのか)
- Knowing How(どのように働くのか)
- Knowing Whom(誰と繋がっているのか・働くのか)
という3つの側面から検討されます。
キャリア資本とは、職務経験、技能、資格、人脈など、仕事を得たりキャリアを築いたりする際に土台となる資源のことで、国境や組織を越えた移動が広がる中で注目されてきた概念です。Knowing Whyはモチベーションや価値観、個人の価値意識的な部分です。Knowing Howはスキルの側面です。Knowing Whomはネットワーク、誰を知っているかということで、キャリア発達はネットワークの中で起きていくので、その価値が重要だという議論もあります。
この3つのうち、Howの部分はマーケットからの評価も重要になります。自分にできることが、相手からどう評価されるか、そしてそのスキルにマーケットバリュー(市場価値)があるかどうかということです。特に海外に出た人や移民の人たちの場合、そもそも自分がすでに持っているキャリア資本(キャリアキャピタル)が移動先の労働市場で正当に評価されないという問題が生じやすいのです。
これを「デバリュエーション(技能・資格・経験の価値切り下げ)」と言います。キャリアの価値の評価基準というのは国ごとの独自性が強く、国を超えると価値の体系が変わるので、一般的には評価が下がりやすくなります。たとえば、日本では出身大学が一定のシグナルとして働くことがありえますが、海外ではその価値がシグナルとして通用せず、一律に扱われてしまうといったことが起こります。
そういった意味で相手の受け入れ側の状況をよくよく理解して、どのくらいの苦労や困難が自分にかかりそうなのかを推定しておくということだと思います。
たとえばシンガポールのEmployment Passでは、就労資格に関する評価の枠組みが比較的明確に示されていて、学歴‧資格も評価項⽬の⼀つとして含まれます。一方で、そこまで明示的な制度がない国もあります。また、日本企業が多く進出している国では日本語を使ってビジネスのできるスタッフに強いニーズがあることもあり、そういった国ごとの違いが、求人の量や条件に影響します。最近はSNSの発達でこうした情報も充実していますし、また就職支援サービスもたくさんあります。事前の調査もしやすくなっています。
もちろん個人の条件は様々ですし、海外での生活経験も重視する場合など、とりあえず行ってみるということも考えなければいけない場合もあります。また事前の情報とマーケットの実際が違っていることもあるでしょう。不利な状況を打開したい人たちの中には、Howのところで足せるものはないかという方向で考える人もいます。具体例の1つは現地での、ジョブマーケットで役に立つ資格の取得です。もう1つはネットワーク、つまりWhomをつなぐことで、技能形成やトレーニング、導きを得るということです。
ただ、現地の人とのネットワークと現地の日本人コミュニティのネットワークのどちらにつなぐにしても、才覚のいる仕事で、相当なストレスがかかることは想定されるべきだと思います。現地に知り合いがいるかどうかで精神的な負担感は大きく変わるでしょうが、それがHowの部分に直接プラスになるわけではありません。想定通りにならないと感じる方も多い一方で、思いもかけない出会いから日本では考えられないようなキャリアが開花する方もいるわけです。
「戻る前提」の有無がキャリア形成を左右する
質問:日本人が海外で就労する場合、日本の元の組織やポジションに戻る前提がある場合と、そうした前提がないまま海外で就労する場合があるかと思います。その後のキャリアの展開に違いが生まれるように感じるのですが、こうした前提の違いは、移動後のキャリア形成や意思決定にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
細萱:企業派遣の海外赴任者(アサインド・エクスパトリエーツ)の場合は、任期が終わったら母国に戻ることが予定されていて、戻るポジションは帰任までに具体的に決定しています。
ですが、ご自身で行かれて現地の企業に勤務した方の場合は、帰国の時期や帰国後のポジションをご自身の状況に合わせて考えていくことになります。その際のポジションのパターンについて、大きく分けて2つのパターンがあります。
1つは、現地での仕事を続けながら自然な流れで日本に戻れるパターンです。たとえばある国の現地の会社で営業職として働いていた方が、その会社の日本支店に逆出向するというような形。「日本人だから日本市場に適応しやすい、戻ってほしい」と言われたり、「日本に戻りたい」と伝えたらポジションを作ってもらえたりというケースです。現地にいる間に企業内のネットワークを通じて帰国先が決まるので、仕事のブランクがなく、そのまま稼働できます。ロスが少ない上に、多くの場合、キャリアアップにつながります。
もう1つは、一から日本で就職活動をするパターンです。この場合にも、うまくいくケースとそうでないケースがあります。うまくいくケースとしては、海外での勤務の際に日本の駐在員と出会い、そのつながりを生かして、日本ではなかなか入れなかったような企業の本社勤務に就くケースがあります。一方、そうしたつながりも得られなければ、帰国後に一から仕事を探し直すことになります。
こうした「戻る前提のある人」は少なくとも帰る籍があります。一方、「戻る前提のない人」は、自分で日本につながるWhom、すなわちブリッジを獲得できれば、帰国前に仕事が決まったり、帰国後すぐにキャリアアップしやすくなったりしますが、そうでなければ帰国後に再構築しなくてはならないので、時間がかかります。リスクの大きさも心理的負荷も、戻る場所がある人とない人では圧倒的に違いますし、そこがそのままキャリア形成の苦労の差につながっていると思います。
帰国後に立ちはだかる再参入と再適応の課題
質問:海外でキャリアを築いたのちに日本に戻る場合、改めて仕事を得る「労働市場への再参入」と、職場に馴染む「文化的な再適応」の両面で課題があるように感じるのですが、それぞれどのような課題があるのでしょうか。
細萱:先ほどもお話した通り、戻る際のポジションが確定していない方の場合、帰国後に改めて仕事を探し直すことになります。その際、たとえばワーキングホリデーを経た方が正社員として入ろうとするときには、先ほどのデバリュエーション(技能・資格・経験の価値切り下げ)が起こる条件がすべて揃っています。
新しく参入するマーケットが海外経験を正当に評価する仕組みを持っていなかったり、雇い主や企業が海外のことがわからない、そもそも海外経験を必要としない仕事だったりする場合、「海外で何をしてきたのかがわかりにくい人材」というような見方をされてしまうこともありえるわけです。
帰国後に職探しをした方々にお話を聞くと、「キャリアという言葉をこんなに聞いたことはありません。これほどキャリアのことばかり問われるとは思わなかった。私のキャリアってそんなに意味がなかったのか」と、すごくつらい経験をしたとおっしゃる方もありました。
中には、言語専攻だったので言語を突き詰めてビジネスに転用しようと海外でキャリアを作りに行ったものの、現地でも日本でも評価してもらえるような経験をつめなかったので、まったく違う職種にキャリアチェンジをするというケースもあります。再参入しやすいところに入るか、もともと好きだった別の分野に入っていくか、あるいは家業を継ぐといった、ご本人から見てわかりやすいマーケットに入っていくというパターンがあり得ます。
文化的な再適応は、心理的な問題も大きいです。文化的な再適応について考える際には、異文化マネジメント研究者のエリン・メイヤー(INSEAD教授)の議論も参考になります。メイヤーは、『The Culture Map』において、コミュニケーション、評価、説得、リーダーシップ、意思決定、信頼形成、意見対立、時間感覚などの次元から文化差を整理しています。
たとえば、コミュニケーションが明示的か文脈依存的か、権限関係が階層的かフラットか、意思決定がトップダウン型か合意形成型かによって、職場での振る舞いの受け止められ方は変わります。つまり、それまで滞在していた職場の文化と新しく参加した職場のコミュニケーション、権限関係、意思決定のスタイルなどが大きく異なる場合、本人の苦労や心理的負荷は大きくなる可能性が高いということです。
たとえばアメリカで働いていた人が、フランクでフラットなコミュニケーションのスタイルを身につけ日本に帰ってくると、「生意気だ」と言われてしまう。逆に、トップダウンの環境に慣れて独自の提案をしなかったら「工夫がない」と言われる。
女性の場合はそこにジェンダーのルールが加わるので、より複雑になります。こうした文化適応的な問題も含めて、性格特性や家族の支援なども絡んでくると、本当に多種多様としか言いようがない状況になっているということだと思います。
海外経験をキャリア資本として生かすために
質問:海外経験は、日本の労働市場の中では必ずしも十分に生かされないケースもあるかと思います。海外経験がキャリアにおいて「生かされる場合」と「生かされにくい場合」は、どのような違いによって分かれるのでしょうか。また、海外経験をキャリアの資産として生かすために、持つべき視点や準備、求められる支援にはどのようなものがあるでしょうか。
細萱:海外経験が生かされるかどうかは、自分が身につけてきたHowが、日本でどのようにマーケットバリュー(市場価値)を持つかということです。これは企業でお勤めをする場合も、自分でビジネスを起こす場合も考えられます。
たとえば、日本ではあまり一般的ではない専門職の資格を持って帰ってくる。これが日本でこれから伸びる分野であれば、先駆者として活躍することができます。たとえば、デンタルケアやフットケアのような、当時の日本ではまだ十分に発達していないケアの分野の経験を持ち込んで、ブランドを構築しながら、新しいマーケットを作ろうとするなどのケースが観察されます。これは、日本には浸透していない価値について新しく普及する役割を担うことです。企業家として価値を作り、マーケットを作っていくということだと思います。
企業にお勤めの方の場合は、企業派遣の方と比較がしやすいですね。企業派遣の海外赴任者の場合は、自社のスキルのマーケットニーズにマッチするかどうかということになります。この場合、雇用されるかといった問題はなく、配置転換を経てうまくいくなど、マッチを見極める評価期間も長くなります。新規に海外から国内へ転職する場合は1回ごとの勝負になるので、ストレスも負担感も大きくなります。
海外経験という言葉は非常に曖昧で、この中にいろいろな要素が含まれています。キャリア資本としての“How(スキル)”が日本で価値を持つと、そのスキルを買いたいという人とうまくマッチングができれば、何らかの形でビジネスやキャリアになっていきます。
生かされにくい場合は、マッチしない場合と、マッチすることをアピールできない場合です。ちょうどよいコミュニティに所属してアピールできれば伸びていきますが、アピールする先を間違えると生かされにくい。もう1つは、アピールするだけの準備が本人にない場合です。
海外にいて「日本にはまだ帰れない」とおっしゃる方がいるのですが、日本でそういう状況が起こることはわかっている、でも自分にはまだそれに対応するだけのキャリア資本としてのスキルがないと思っている。だから帰れない、現地での滞在を延ばす。日本市場へのアピールの仕方やアピールするべき先がわからないと、仕事が見つからず、結果として帰国できない状況が続くことになります。
そういった意味では、海外滞在中も日本での人間関係やネットワークを維持しておこう、定期的にメンテナンスしておこうと考える人もいますね。結婚などの仕事以外の事情も加わった場合は、「帰国するタイミングを逃してしまった」という状況も起こり得ます。
日本の企業(マーケット側)に求められることとしては、海外経験のある人材のニーズをどこかに明示しておくことが重要です。それがインフォーマル(非公開)なものに閉じ込められていると、マッチングの確率は大きく下がります。これは両者にとって機会損失のような気がします。
また、海外経験をメンタル的・文化的なものとして捉えるのか、スキル的なものとして捉えるのかを明確に切り分けることも重要です。募集するスキルの要件をある程度認識した上で、海外経験人材の採用に踏み出すかどうかで判断も変わってきます。
そして海外経験で培われた言語的、文脈的なスキルをできるだけ明示化して整理した上で、採用につなげていただけるといいなと思います。基準や仕組みの整備と維持にはそれなりのコストも人手もかかりますが、もしかするととてもよい人材を見逃しているかもしれません。