1.はじめに
人々の移動にはさまざまな形態のものがあります。たとえば、私たちは通勤・通学といった日常生活を営むために日々移動をしていますし、休日にはレジャーのために普段の生活圏とは異なる地域を訪れることもあるはずです。
一方、一時的であれ、永続的であれ、居住地の変更を伴う移動、つまり転居も典型的な移動形態の一つでしょう。その最たる例としては進学や就職によるものが挙げられますが、転勤・転職、あるいは結婚などのライフステージの変化によって転居することも珍しくありません。また、年齢を重ねて現役を引退することを契機とした移動もあります。
こうした人々の移動は、頻度や距離、形態、あるいはそれらを取り巻く諸条件などの相違はありますが、古い時代からみられたことです。そこで本稿では、江戸時代における人々の移動に着目し、その実態について紹介したいと思います。
ただし、多様な移動を網羅的に取り上げるのは紙幅の都合上困難ですから、居住地の変更を伴う労働移動、特に雇用関係の中でみられる奉公人の移動に焦点をあてて、具体的な史資料や研究事例からみてみたいと思います。
長島 雄毅
埼玉大学 教育学部 准教授
京都府出身。2018年3月に京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程を修了。京都大学研修員、愛知工業大学地域防災研究センターポストドクトラル研究員、宮崎産業経営大学法学部講師を経て、2023年4月から埼玉大学教育学部准教授。専門は人文地理学、歴史地理学で、特に幕末の大都市における人口移動に関する研究を進めている。
2.近世の人口史料
(1)宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)はどのようなものか
人々の移動を把握するために何らかの史資料が必要です。現代であれば、国勢調査をはじめとした統計が整備されていますが、その国勢調査が日本で開始されたのは1920(大正9)年です。それよりも過去の時代においては別の史資料が必要となるのです。
近代統計が整備される以前の日本、特に江戸時代の人口を把握できる代表的な史料が「宗門改帳」です。その名称から想像されるように宗門改帳は江戸幕府の禁教政策による産物であり、17世紀半ば以降に全国各地の町・村等で作成されました。地域や領主による差異はありますが、町・村ごとに毎年1回2部ずつ作成され、1部は領主に提出、もう1部は町・村の役人(名主や庄屋など)用の控えとして保存されました。
控えには宗門改帳作成以後の出生・死亡・転入・転出などが記録され、翌年分の調査・作成の際に活用されたケースが多かったようです。研究に活用される宗門改帳の多くは町・村の共有文書か旧家に残されたものです。
(2)宗門改帳の形式
宗門改帳は、各住民が「キリスト教徒でない」ことを証明するためのものでした。そのため、各住民はいずれかの寺院の檀家となる必要があり、宗門改帳には世帯(または個人)の檀那寺(檀家の葬儀や供養を執り行う寺院)が記されました。
したがって、本来的な目的からすれば、宗門改帳には各住民とその檀那寺が記載されれば用をなしたわけですが、時代が下るにつれて年齢や移動情報、持ち高、家屋、牛馬の所有状況といった経済情報まで記録される例がみられるようになったのです。
この背景には、領主が徴税をはじめとした支配に関係する情報を必要としていたことが挙げられます。ただし、どのような情報を記録するかは領主の考え方によるため、記載形式には地域や領主ごとに多様性がみられるようになりました。この点は近代統計と大きく異なる部分と言えます。
以上の背景によって宗門改帳は作成され、20世紀後半の全国的な自治体史編纂事業の進展などが契機となって各地で発見されることとなったのです。ただし、宗門改帳が発見されたのは全国に数多みられた町・村のうちのごく一部であり、どの程度の代表性を有するのかは十分な検討が必要です。
(3)宗門改帳からわかること
もっとも基本的な事項のみを記載する宗門改帳の場合であっても、世帯単位での構成員とその檀那寺が記載されていますので、人口総計や1世帯当たり人口の経年変化をみることができます。
さらに、各世帯員の続柄や年齢が記載されていれば家族構造とその変化を検討する材料になりますし、経済情報が記載されていれば町や村の社会構造もみえてくることになります。そして、住民の転入元/転出先に関する記載があり、その情報を整理すれば、どのような構成員がどのような地域との間で移動していたかと傾向を読み取ることも可能となるのです。
前述のように、宗門改帳の記載形式は地域や領主によって異なりますし、ある時点で記載項目が変化する事例も珍しくありません。また、史料の残存状況によって変化を把握できる期間も制約されるものです。各地の資料館や博物館の古文書目録をみていると、単年あるいは断続的に数年分が残っている例はそれなりにみられますが、数十年にわたって欠けることなく連続的に残っているケースは多いとは言えず、1世紀単位ともなるときわめて珍しいものと言えるでしょう。
以上のことをふまえて、次節以降では近世の人口移動に関する研究事例についてみていきます。
3.集落の類型による労働移動の差異
歴史的に第一次産業を基盤としてきた集落は村落(村)と呼ばれ、農村や漁村といった機能、あるいは平地村、山村、海村といった立地による分類なども可能です。一方で、第一次産業以外を基盤としてきたのが都市であり、こちらもさまざまな分類が可能です。ここでは、集落の類型によって労働移動にどのような差異がみられるのかを分析した甲斐(現在の山梨県)の研究事例(※1)に注目してみたいと思います。
甲斐は領域の多くを山地が占めますが、中央部に広がる甲府盆地には多数の農村が分布していました。また、盆地北部には政治的・経済的中心地である甲府城とその城下町が形成され、さらに他地域とつながる街道の整備とともに宿場町もみられるようになりました。
このように甲斐国内にはさまざまな集落が含まれるのですが、広範囲に町・村の宗門改帳が残存しています。それらからは、都市(城下町)、宿場町、平地村、山村という類型からみた労働移動(奉公人の転入と転出)の移動距離の差異が明らかにされます。
まず、都市では同一町内からの移動は少数であり、町外からの移動が多くを占めていました。具体的には10km圏外からの移動が時期を追うごとに増加し、近世後期には半数以上を占めるようになっています。一方、転出については都市内部の移動が大半だったとみられます。つまり、当時の甲府城下町における奉公人は遠方からもたらされますが、転出先としては城下町内部が主であったということです。
宿場町についてみると、宿場町内部や近村との移動が多数を占めつつも、10km圏外との転入・転出が一定数みられました。このことは、城下町ほどではないものの経済活動や街道を通じた他地域との交流が盛んであったことを示唆するものです。
一方、平地村は、村ごとの相違はあるものの転入・転出ともに4km圏内の移動が多数を占める傾向にあり、村内か近村との間で奉公人は確保されていたと言えます。もちろん遠距離移動が全くなかったわけではなく、都市や宿場などへの移動も一部に含まれていたと言えるでしょう。
山村は、転入については平地村よりもやや広い範囲からみられ、転出に関してはより遠方への移動がみられました。この背景には、地形的な条件や労働需要の点から移動距離が大きくなりやすいことが示唆されます。
以上のように、甲斐における労働移動をみると、集落類型別に明瞭な違いがあることが確認されます。そして、こうした労働移動の中でもとりわけ特徴的なものが都市への人口流入と言えるでしょう。そこで、次節では農村から大都市への顕著な移動に着目した研究事例をみてみましょう。
4.農村から都市への労働移動
(1)近世の大都市と人口増加
江戸幕府の成立以降の日本では、大坂冬の陣・夏の陣、島原・天草の乱などの後、大きな戦乱が起こらない時代が続きました。そのため、城下町などの都市が地域の経済的中心地として繁栄し、農村地域では新田開発が進められることとなりました。
結果として、17世紀初頭に全国で千数百万人だった人口は、その後の約1世紀の間に3,000万人程度まで増加したとされています。多くの都市、とりわけ江戸・大坂・京都といった大都市は経済活動の中心地として確固たる地位を築き、ピーク時には、江戸の人口は約100万、大坂と京都の場合は約40万に達したと言われています。
(2)都市への労働移動
大都市で急激な人口増加が生じた段階でも、都市外からの急激な人口流入がありました。そのことを明瞭に示す事例として、美濃(現在の岐阜県)の西条村における18世紀後半から約1世紀にわたる人口動態を分析した研究(※2)があります。
濃尾平野の輪中地域にある西条村は、宗門改帳から確認できる期間において、男子の半数程度、女子の60%程度が奉公、すなわち住居の変更を伴う労働移動を経験していました。これは出身階層によっても相違があり、小作層で特に割合が大きかったとされています。
当初の西条村からの奉公は都市へ向かうものが多く、とりわけ京都や名古屋が顕著でした。しかし、19世紀中盤頃には京都への奉公は減少し、それに代わって美濃・尾張(現在の愛知県西部)・伊勢(現在の三重県)の中小都市への奉公が目立つようになっています。
この背景には、経済が成熟した大都市での奉公先が減少する一方、新興の織物工業産地、宿場町、港町などで労働需要が増大したことがあったようです。また、農村への奉公も時代が下ると減少しており、農作業の繁閑に柔軟に対応するため日雇いなどの短期雇用への転換が生じたことが示唆されています。
以上のほかに西条村からの労働移動の特徴とされるのが、村外へ奉公に出た人のうち最終的に帰村した人が3割程度であったという点です。そして、残りの7割程度のうち、半数程度は奉公先で死亡し、半数程度は最終的に村外へ定着していました。西条村からの奉公先として多くみられたのは大都市、そして時代が下ると町場となっていましたが、そうした経済発展を遂げる地域への人口移動が少なからず生じていたのです。
5.大都市の商家における奉公人の雇用と労働移動
(1)近世都市における商家の奉公人
近世の都市には多様な商人や職人などが存在しました。それらは家族経営、あるいは家族と数人の住込み奉公人による小経営が典型的でしたが、17世紀後半頃には数十人もの住込み奉公人を抱えるような大店(おおだな)も出現するようになりました。こうした大店の中には奉公人に関する諸制度、具体的には昇進制度や一定期間勤め上げたものに対する暖簾分けの制度などを設ける例もありました。
どのような規模の店舗であったのかはさまざまですが、農村から都市へ奉公に出た人々はこうした商家や職人に雇用されることが一般的でした。したがって、奉公人の雇用は大都市をめぐる労働移動を構成する要素の一つであったと言えるわけです。
以下では、その一例として、若狭の農村から京都の呉服商の奉公人となった人物の経歴について、移動に着目しながらみてみましょう(※3)。
(2)ある奉公人の経歴
ここで取り上げるのは、1818年に若狭国(現在の福井県南部)のある農村で上層の家に生まれた重五郎という人物です。重五郎の生家はしばしば庄屋を務めた家であり、重五郎は11人きょうだいの10番目(六男)でした。
このきょうだいの経歴を家系図でみると、男子は本家・分家の相続や他家への養子入りが多く、重五郎を含む2人のみが京都へ奉公に出ていました。一方、4人の女子はいずれも若狭国内の他地域へ婚姻に出ているのですが、そのうち3人が京都での数年の奉公を経験したうえでのことでした。女子が数年間の奉公を経て結婚するというのは当時の典型的なライフコースでした。
さて、重五郎は13歳の時に京都の呉服商遠藤家へ奉公入りします。古文書によると、その際に請人(保証人)となったのは、すでに京都で立身出世を果たしていた21歳年上の兄であったとみられます。当時の大店の男性奉公人は商いに関わる者(店表)と家事に関わる者(奥)が明確に区別されていましたが、重五郎は店表としての雇用でした。
また、宗門改帳によれば、遠藤家の店表の奉公人はすべて10代前半で奉公入りしていたので、重五郎もその基準に該当していたことがわかります。ただし、遠藤家の男性奉公人の大半は京都出身であり、上層の家とはいえ他国出身者は少数派でした。
重五郎は遠藤家へ奉公入りする際に重蔵という名前を与えられ、さらに元服後には安兵衛と名乗って商売に従事しました。多くの奉公人が途中で暇を遣わされる中で、安兵衛は31歳まで住込み奉公を続けた後に独立を許されました。そして、遠藤家の近隣に居住するとともに結婚し、遠藤家の重役として通いで勤めるようになったのです。
その後、安兵衛は病気を患い、45歳で死去することになります。なお、安兵衛には実子がいなかったのですが、その後継者として生家から又甥を呼び寄せられていたことが家系図に記録されています。最終的にこの相続はうまくいかなかったようなのですが、ここでも親族関係によって京都への移動が生じていたのです。
以上の事例はあくまでも一事例であり、商家の規模や業種等によってもさまざまなパターンがあることは言うまでもありません。奉公人に独立(暖簾分け)をさせることができた商家ばかりではなかったはずです。しかし、近世においても少なくない人々が移動をしながら、道を切り開いていたことは確かと言えるでしょう。
6.おわりに
本稿では近世の人口移動について、労働移動、なかでも奉公人の移動に着目しながら述べてきました。当時は現代と全く異なる社会的背景の中にあり、人々の移動には多くの制約があったのは確かでしょう。しかし、諸研究の成果をみると、積極的なのか消極的なのかはさておき、多くの人々が移動を重ねながら身を立てていた人々がいたことを見て取れるのではないでしょうか。
本稿で言及した事例は労働移動の全体を示しているわけではありません。近世後期になると、都市・農村を問わず日雇いなどの短期雇用が増加する傾向にありました。都市では「雑業」と表現される多様な仕事の増加によって、奉公よりも「引越」による人口流入が目立つようになり(※4)、農村でも繁閑に応じた柔軟な雇用がみられるようになっていきました(※5)。
近世の人々は時代ごとの変化に対応しながら、多様な形態の移動をしていたということができるでしょう。
【参考文献】
※1 溝口常俊(2002)『日本近世・近代の畑作地域史研究』名古屋大学出版会。
※2 速水 融(1992)『近世濃尾地方の人口・経済・社会』創文社。
※3 長島雄毅(2015)「近世後期京都における商家奉公人の雇用と再生産」人文地理67-1、pp.1-19。
※4 斎藤 修(2002)『江戸と大阪』NTT出版。
※5 成松佐恵子(1992)『江戸時代の東北農村』同文館。