はじめに
現在、主流となっているキャリア理論は、欧米を中心に形成されてきたものが多く、個人が自ら「場所」や「環境」を選択・変更することを前提とした考え方の上に成り立ってきた。そのため、キャリアを考える際には、「自ら場所や環境を選び、機会をつかむ個人」が良しとされる価値観が当然の前提として語られることが多い。
もちろん、それらを否定するわけではない。しかし、その前提は本当に日本人のこれまでの経験に根ざしたものなのだろうか。工業化が進む以前の日本では、稲作や農耕を中心とした定住を基本とする生活様式のもとで成り立ってきた。
生まれた土地で暮らし、生まれた土地で働くことが当たり前だった社会において、場所や環境を変える「移動」は婚姻や奉公、出稼ぎなど普段の生活とは一歩離れたものであり、現代的なキャリア選択の前提とは異なっていたのではないだろうか。長い日本の歴史からみれば、日本人が転居や旅行、越境といった移動を比較的気軽に行えるようになったのは、ごく最近のことである。
そこで今回は、この「移動」に着目し、「移動」することが日本人の働き方やキャリアにどのように影響を与えるのか、また、現在どのような変化の途上にあるのかなど、連載企画を通して考えたいと思う。
※この連載企画は、さまざまな専門家へのインタビューや寄稿を展開予定である。本稿以降、新たな記事を公開した場合は都度、本稿を更新していく。
移動のあり方の変化と働き方
上記のような前提に立つと、日本人にとっての「キャリア」は、必ずしも自らの意思で場所や環境を選び取り、積極的に変化することを前提として形づくられてきたものではなかったのではないだろうか。むしろ、与えられた土地や役割のなかで、どのように生き、働くかを工夫してきた歴史の方が長いように思う。
陸上交通の基盤となる街道が整備され、それまでに比べれば相対的に移動の見通しが立つようになった江戸時代には、伊勢参りや商い、奉公、出稼ぎなど、生活の場を離れ、別の土地に足を運ぶことも増えた。
もちろん、日本における移動は、陸上だけで完結していたわけではない。海に囲まれ川も多い日本では古来より、海上や河川を通じた移動が、地域と地域を結ぶ重要な手段であり、人や物、情報を運んできた。ただしそれらもまた、自然条件に左右される場合が多く、安全が保証された移動ではなかった。安全性が担保される以前の日本人にとって移動は、常にリスクや覚悟と隣り合わせの選択だったと言えるのではないだろうか。
こうした「移動のあり方」が大きく変わり始めたのは、明治時代以降のことである。交通網の整備や都市化の進展、教育や雇用の機会拡大に伴い、人が移動する距離や頻度は徐々に広がっていった。転居や転職、さらには海外への移動も、特別な活動に限られものではなく、人生の選択肢の一つとして意識されるようになっていく。移動はもはや一度きりの決断ではなく、繰り返し経験しうるものとして捉えられるようになった。
本企画では、移動をただ良い・悪い、あるいは望ましい・望ましくないといった評価をするのではなく、現代の日本人にとって、人が動けるようになったことが、仕事観や生き方の前提にどのような影響を与えてきたのかに目を向けることを重視したいと考えている。
今後は、人口移動の歴史や移動・移住などを研究する専門家へのインタビューや寄稿を通じて、さまざまな角度からこのテーマを掘り下げていく予定である。本記事は、その出発点として企画の問題意識を共有すると同時に、各コンテンツをつなぐ記事として、随時更新していく。連載を通じて、「移動」が日本人のキャリアに与える影響について改めて考えるための手がかりになればと考えている。
近世日本における「労働移動」
ここからは、連載企画の内容をまとめる。まずは、埼玉大学教育学部長島雄毅先生の寄稿から内容を抜粋している。記事の詳細は以下を確認してほしい。
近世、とりわけ江戸時代において、人々の移動は特別なものではなく、就業・結婚・家族事情などに伴い日常的に行われていた。居住地の変更を伴う「労働移動」、すなわち奉公人の移動の実態を明らかにするために用いられる代表的史料が、宗門改帳である。これは住民の宗教統制のために作成された台帳であるが、転入・転出や年齢、家族構成なども記録されており、人口移動の分析に活用されている。今回は、そんな古文書から読み取れる内容をまとめている。
集落によって異なる移動のかたち
労働移動の特徴は、都市・宿場町・農村・山村といった集落類型によって大きく異なる。例えば都市では、遠方からの流入が多い一方、転出は都市内部に留まる傾向がみられる。
宿場町は近隣との移動が中心ながら広域移動も一定数存在し、農村では近距離の移動が主流であった。山村では地形や労働需要の影響から、より広範囲の移動がみられる。こうした違いは、各地域の経済構造や労働需要を反映している。
農村から都市へ-人口流入のダイナミズム
江戸時代の大都市は、農村からの労働移動によって支えられていた。実際、ある農村の事例では、男子の約半数、女子の6割程度が奉公を経験し、多くが都市へ移動していたことが確認されている。
当初は京都など大都市への移動が中心だったが、時代が下るにつれて中小都市や新興産業地域への移動が増加した。これは、大都市の雇用機会が縮小する一方で、地方の経済発展に伴い新たな労働需要が生まれたためである。また、移動した人々の多くが帰村せず、移住先に定着していた点も特徴的であり、人口移動が地域社会の構造変化につながっていたことがうかがえる。
奉公人としてのキャリア形成
都市に移動した人々の多くは、商家や職人のもとで奉公人として働いた。大規模な商家では昇進制度や独立を認める仕組み(暖簾分け)も整備されており、移動は単なる労働供給ではなく、キャリア形成の機会でもあった。
実際の事例では、若年で都市に出て奉公を始め、長年の勤務を通じて独立し、その後も商家と関係を持ちながら働くといったキャリアの展開が確認されている。家族や親族のネットワークも移動を支える重要な要素であった。
移動を通じて築かれる生き方
江戸時代の人々は、現代とは異なる制約の中にありながらも、移動を重ねて生計を立て、道を切り開いていた。労働形態も時代とともに変化し、後期には短期雇用や多様な仕事が増加するなど、より柔軟な働き方が広がっていった。つまり、近世においての移動は例外的な行為ではなく、個人の生計やキャリアに深く結びついた実践だったといえる。
「移動」はキャリアをどう変えたのか?
次に、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター伊藤将人先生のインタビューから内容を抜粋する。記事の詳細は以下を確認してほしい。
現代社会では、就職・転職・留学・移住・出張など、人の「移動」がキャリア形成の重要な要素となっている。かつてのように組織や地域に強く紐づく働き方から変化し、個人が主体的に移動を選び、機会を獲得する時代へと移行した。このような変化は「移動の個人化」とも呼ばれ、キャリアの選択肢を広げる一方で、その結果を個人の責任として引き受ける構造も強まっている。
キャリアは「直線」ではなく再編集される
現代のキャリアは、ひとつの企業や場所に留まり続ける直線的なものではない。転職や副業、多拠点生活を通じて、断続的に移動しながら経験を積み重ね、その都度キャリアを編み直していくものとなっている。
特に移住経験は「リセット」ではなく「再編集」として語られることが多い。都市で培ったスキルをそのまま移転するのではなく、地域の文脈に合わせて仕事の形を変え、副業や複数の収入源を組み合わせるなど、新たな働き方が生まれている。
移動の自由は平等ではない
一方で、移動の自由は誰にでも等しく開かれているわけではない。年収や職業、ジェンダー、家族状況、居住地などの条件によって、移動のしやすさには大きな差がある。実際、所得が高い人ほど移動に使える資源が多く、仕事に関連した移動の機会も多い傾向がある。このように移動の条件は社会構造に規定されており、「動ける人」と「動けない人」の間でキャリア機会の差を生み出している。
移住がもたらす可能性と制約
移住は、通勤時間の削減や生活の質の向上、地域での役割獲得といったメリットをもたらす。都市では埋もれていたスキルが評価され、働き方やライフスタイルを再構築できる機会にもなる。しかし同時に、地方では職種の選択肢が限られ、収入水準も低い傾向にあるなどの制約も存在する。
また、地域からの期待や家族との調整といった課題もあり、移住は単なる自由の拡大ではなく、多様な条件の調整を伴う選択である。
キャリアは「動く」だけではない
次に、立教大学経営学部の松下慶太先生のインタビューから内容を抜粋する。記事の詳細は以下を確認してほしい。
キャリアを考える際、「どれだけ移動したか」が重視される傾向が強まっている。転職や越境、副業といった経験は成長の証とされ、「動くこと」が前提のように語られることも少なくない。しかし、この前提は本当に多くの人に当てはまるのだろうか。
キャリアは「移動を前提」としなくてよい
現代のキャリア論では、環境を変えることが成長の条件として語られがちだが、実際には誰もが自由に移動できるわけではない。家庭や地域、組織との関係性などが影響し、「動かない/動けない」選択を取る人も多い。
さらに社会は、地域や職場に根ざして役割を果たす人々によって成り立っており、移動できる人の存在もその基盤の上で成立している。つまり、移動できるかどうかだけでキャリアの価値を測ることは、一部の視点に偏ったものともいえる。
「動かない」ことが生む蓄積と強み
同じ場所や組織にとどまることは消極的な選択と見なされがちだが、そこには時間をかけた蓄積という強みがある。長期的な関わりの中で培われる専門性や信頼関係、暗黙知は、短期間の移動では得ることが難しい。また、地域や組織の文脈を深く理解することで、他者には担えない役割を果たすことも可能になる。
「受け入れて変わる力」というもう一つの軸
キャリア形成において重要なのは移動そのものではなく、環境や他者を受け入れながら自分自身を変化させていく力だ。同じ場所にとどまっていても、新たな役割に挑戦したり、外部との接点を持ったりすることで変化は起こり得る。
重要なのは「どこにいるか」ではなく、「どのように関わり、何を学び取るか」という姿勢である。移動と定着を対立的に捉えるのではなく、それぞれの価値を踏まえ、自分にとって意味のあるキャリアのあり方を捉え直す視点が求められている。
海外経験をキャリア形成に生かすために
次に、上智大学経済学部の細萱伸子先生のインタビューから内容を抜粋する。記事の詳細は以下を確認してほしい。
現代では留学や海外就労など、国境を越えた移動もキャリア形成の選択肢として身近になりつつある。しかし、海外経験は必ずしも自動的にキャリア上の強みになるわけではない。異なる労働市場への移動には新たな可能性がある一方で、評価基準の違いや帰国後の再適応といった課題も伴う。海外経験を生かすためにはどのような視点が重要なのだろうか。
国を越える移動は労働市場の移動でもある
海外で働くことは、単に居住地を変えることではなく、日本とは異なる労働市場へ移動することを意味する。そのため、日本で積み上げた学歴や職歴、資格が移動先で同じように評価されるとは限らない。
海外経験を考える際には、「人生経験としての成長」と「職業的なキャリア形成」を区別して捉えることが重要である。異文化に触れることによって視野が広がることはあっても、それがそのまま職業上の価値として認識されるわけではない。移動先の市場が何を評価するのかを理解し、自らの経験をどのように位置付けるかが求められる。
海外経験の価値を決める「キャリア資本」
キャリア形成を考えるうえで「キャリア資本(キャリアキャピタル)」という考え方がある。キャリア資本は、
- Knowing Why(なぜ働くのか)
- Knowing How(どのようなスキルを持つのか)
- Knowing Whom(誰とつながっているのか)
の3つから構成される。特に海外でのキャリア形成では、自身のスキルや経験が移動先でどのように評価されるかが重要になる。場合によっては、日本で高く評価されていた経歴や資格が現地では十分に評価されず、「デバリュエーション(価値の切り下げ)」が起こることもある。一方で、現地で新たなスキルを獲得したり、人脈を構築したりすることで、新たなキャリアの可能性が開かれることも少なくない。移動の成果は単なる場所の変化ではなく、どのようなキャリア資本を蓄積できるかによって左右される。
帰国後のキャリアは「再移動」の問題でもある
海外経験は、現地で働いている期間だけで完結するものではない。日本へ戻る際には、労働市場への再参入や職場文化への再適応という新たな課題に直面する。海外で培った経験が企業に十分理解されなければ、強みとして評価されない場合もある。また、海外の職場文化に適応した結果、日本の組織との間に価値観やコミュニケーションのギャップが生じることもある。
そのため、海外経験を生かすには、帰国後を見据えて日本国内のネットワークを維持し、自身の経験やスキルを言語化しておくことが重要である。企業側にも、海外経験を持つ人材を受け入れ、評価する仕組みづくりが求められている。
まとめ
本企画では、「移動」という視点から日本人のキャリア形成について考えてきた。近世日本において移動は、奉公や婚姻、出稼ぎなどを通じて人々の生計やキャリア形成に深く結び付いていた。その後、交通網や産業構造の変化とともに移動の自由度は高まり、現代では進学や就職、転職、移住、さらには海外就労まで、多様な形でキャリア形成の選択肢となっている。
一方で、「移動できること」だけがキャリアの価値ではないことも見えてきた。地域や組織に根ざして蓄積される経験や信頼関係には固有の価値があり、人は移動しなくても成長できる。また、海外への移動のように新たな市場へ挑戦する場合にも、そこで得た経験が自動的に評価されるわけではなく、自らのスキルや人脈、経験をどのようにキャリア資本として形成し、活用するかが問われる。
キャリア論ではしばしば「動くこと」が前向きな選択として語られる。しかし、実際のキャリアは移動か定着かという二項対立では捉えきれない。人によって置かれた環境や条件は異なり、同じ場所に留まることにも、場所を変えることにも、それぞれ意味と価値がある。重要なのは、どこにいるかではなく、その環境の中で何を学び、誰と関わり、どのような経験を積み重ねていくかではないだろうか。
人や仕事を取り巻く環境が大きく変化する時代だからこそ、「移動」という切り口からキャリアを見つめ直すことは、自らの働き方や生き方を考えるヒントになるはずである。移動する人にも、移動しない人にも、それぞれのキャリアがあり、その多様なあり方を理解することが、これからのキャリア形成を考える第一歩になるだろう。