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【つむぐ人】今は亡き母の存在が介護職の原点。その母の難病によって生活相談員としての譲れない軸を定め、自身の存在意義をも認識することになった。

キャリアリサーチLab編集部
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『つむぐ、キャリア』では、多様化する過剰な選択肢から選び続けていると、選択結果のあいだに矛盾が生じたり、相容れないものを選んでいたり、これらを新しい文脈で意味づけて、撚り合わせ、調和させることを「つむぐ」と表現しました。

そこで、「つむぐ、キャリア」を実践している方々を「つむぐ人」と称し、その方々にインタビューを行い、自らのライフキャリアとビジネスキャリアをどのようにつむいできたのかをお聞きします。また、今後各インタビューに共通して現れた要素などを専門家の先生方との対談とあわせ、「つむぐ、キャリア」という概念に必要な要素などを具体化できればと考えています。

今回のつむぐ人、佐藤寛さん

<つむぐ人プロフィール>
佐藤 寛(さとうひろし)
1979年生まれ。茨城県立水戸農業高校卒業後、地元のスーパーマーケットに就職。約3年間勤務の後、介護職としてグループホームに転職し、5年間の在職中にリーダー職を経験する。その後、「社会福祉法人北養会 もくせい」に転職し、特別養護老人ホーム(入所サービス)、デイサービスで働いた後、現在は生活相談員を務めている。茨城県水戸市在住。

看護師だった母を子どもながらに尊敬

高校時代に地元のスーパーマーケットでアルバイトをしていた佐藤さんは、店長からの誘いにのってそのままスーパーマーケットへの就職を決める。その決断には、就職氷河期という時代背景も影響していたそうだ。

佐藤:「高校を出たら就職するつもりではいましたが、これといってやりたいことは特にありませんでした。アルバイト先のスーパーマーケットの店長が人事部長も兼任していて、誘われたことが入社のきっかけです。かわいがってくれた店長の期待に応えたかったし、就職氷河期で友達の多くが就職活動に苦労する様子を間近で見ていたので焦りもありました」

スーパーでは青果部門を2年、一般食品部門を1年経験し、接客業、小売業の面白さを味わっていた。

佐藤:「アルバイト時代からお客さんと話をするのが楽しくて、接客業が向いているのかなと思いました。社員になると接客以外に売り場づくりも任されるようになり、イベントを企画したり、季節商品のコーナーをつくったり、割と自由にやらせてもらえる環境だったのでやり応えがありました」

佐藤さんの母親は看護師として長年病院に勤め、看護師長の役職を担っていた。そんな母の背中を見て、姉も看護師の道へと進むことになる。そして佐藤さんもまた、医療の最前線で働く母を尊敬の眼差しで見つめていた。

佐藤:「母はよく仕事の話をしてくれたので、食卓で医療の話題になるのは日常でしたし、自分が風邪をひいた時などには母が勤める病院で診てもらいました。そんな環境で育ったので、医療のスペシャリストとして働く母のことは子どもながらに尊敬していましたね。

ただ、姉のように同じ業界で働こうとまでは、当時は思いが至らず…。高校の同級生と遊ぶ“今”の時間が楽しくて、先のことをしっかりと考えないまま縁あってスーパーに就職。働きだしたらやりがいは感じていましたが、品出しなどの体を使う作業を続けるうちに腰を痛めてしまいました」

母の影響で介護の道へ進むも挫折

佐藤さんがスーパーでの業務による腰痛に悩まされていたのと同じ頃、母親が病院から高齢者施設へと異動することになる。それをきっかけに佐藤さんも福祉業界への転身を考えるようになった。

佐藤:「母は看護師時代にケアマネージャーの資格を取得していました。そのスキルが買われて、同じ医療法人内にある高齢者施設の施設長に抜擢されたようです。

母からは、いずれ自分で介護施設を立ち上げたいという夢も聞かされていました。腰痛に苦しみ、スーパーの仕事はこれ以上もたないなと別の道を考えていた時期でもあったので、退職して介護の資格をとろうと決意。いずれ母の手伝いがしたいというシンプルな動機で、決断するのに迷いはありませんでした」

3年間勤めたスーパーを退職し、ヘルパー2級(現在の初任者研修)の資格を取得した後、佐藤さんはハローワークから紹介されたグループホームへと転職。自宅から車で50分かかる遠方の施設を選んだのには、修業の意味合いがあったという。

佐藤:「将来、母が立ち上げる介護施設で働きたいので、それまでにスキルアップしたいという希望をハローワークに伝えたところ、まだ開設して間もないグループホームを紹介されました。

グループホームは、認知症の方を専門に受け入れる施設で、個室と共有スペースからなるユニット単位で利用者が共同生活をします。グループホーム自体がまだ茨城県内に数施設しかない頃の話です。面談した社長やオープニングメンバーの先輩職員から熱意をひしひしと感じて、ここで頑張ろうと決めました」

未経験で飛び込んだ介護の現場で佐藤さんは苦労しながらも、介護職員として成長していく。修業の場として期待した通り、多様な経験、出会いを得ることもできたと当時を振り返る。

佐藤:「認知症の方と接すること自体が初めてだったので最初は戸惑うことばかりでしたが、触れ合いのなかでゼロから知識や技術を吸収していきました。認知症の利用者さんに対しては、丁寧に、根気強く言葉を交わし合う必要がありますが、相手と向き合って会話のキャッチボールをするというコミュニケーションの基本は同じです。

そのため、スーパーでの接客経験が活かされる場面は多かったです。スーパーと同じく体が資本の仕事でしたが、ボディメカニクスを学んだことで体に負担がかからない力の入れ方を修得し、その頃には腰痛も軽減されていました。

グループホーム自体がまだ珍しい時代だったことから、社長が全国の先進的な介護施設への研修や情報交換に積極的で、私も全国の施設で学ばせてもらう機会が多くありました。志の高い人たちの話を聞き、創意工夫のある介護の現場を実際に見て得たものはたくさんあります。それが今でも私のベースになっていることは確かです」

介護職未経験からリーダーへと昇格し、意気揚々と自身がめざす理想の介護へと邁進する佐藤さんだったが、いつしか周囲との温度差を感じるようになる。その違和感はやがて虚しさへと変わり、5年間勤めたグループホームを退職することになった。

佐藤:「当時を振り返ると自分だけが突っ走って、周りが見えていない状況でしたね。自分と同じ熱量を全員がもっていること前提で厳しい指摘もしていました。それがメンバーのため、チームのためだと思っていたんです。

社長に対してもストレートに意見を言うようになり、軋轢が生まれていました。当時のグループホームは介護業界のなかでマイナーな存在で、給与などの待遇面で他の施設に劣る部分が多く、職員の入れ替わりも頻繁にありました。仲間がどんどん辞めていくことが寂しく、引き留められない自分に虚しさも感じていました。

みんながついてこないのはリーダーである自分に原因があると思い、自己研鑽の研修に通ったりもしたのですが全部空回りで…。退職する前の1年間くらいは、もがきながら苦しみが増していく悪循環で、これ以上続けると心身が壊れてしまうと思ったので退職を決めました」

介護業界から一旦離れ、再チャレンジ

佐藤さんがグループホームで周囲との温度差に悩んでいた頃、母親は施設長を勤めていた介護施設からヘッドハンティングされて、地域包括支援センターの所長に就任していた。そのため、自分で介護施設を立ち上げるという計画は後ろ倒しになり、いずれは母の施設を手伝いたいと考えていた佐藤さんは行き場を失うことになった。

佐藤:「1年間ぐらい無職の状態が続きました。スーパーに就職した時も、介護職を選んだ時も、それ以外の選択肢を考えることなく決めたので、職探しをしながら世の中にはいろんな仕事があるんだなと新鮮な驚きがたくさんありましたね。

子どもの頃から釣りが好きだったので、そこから派生して海洋学を学んでみようと思ったり、興味のおもむくままにいろいろと検討しました。でも、条件面などのハードルからどこかに就職するには至らないまま1年が経過。地元の水戸と東京を行ったり来たりしながら、日々どこかで釣り糸を垂らす生活でした」

釣りを楽しむ佐藤さん
釣りを楽しむ佐藤さん

1年間の浪人生活で貯金が底をつき、いよいよ再就職を考えねばならなくなった頃、母親に「パーキンソン病」が発覚する。手足が動かしにくくなる症状を伴う難病だった。

佐藤:「足の運びが悪いなどの症状はありましたが薬で劇的に改善がみられ、母自身が元々看護師なのでセルフコントロールもできていました。なので、通院しながら高齢者支援センターの仕事を続けるのに支障がない状態でした。急激に症状が進行する病気ではないと分かっていたので、当時はあまり深刻に考えていませんでした。まずは自分の再就職先をどうするかが先決でしたね」

佐藤さんは現在も勤務する「社会福祉法人北養会 もくせい」を再就職先に選び、特別養護老人ホームの介護職としてリスタートをきることになる。グループホームで燃え尽きたはずが、次の仕事として選んだのも介護の現場だったのだ。

佐藤:「1年間リフレッシュしたことで思い詰めていた気持ちが晴れていきました。『もくせい』の面接で前職を辞めることになった経緯を正直に話したところ、ネガティブに受け取るどころか、私のキャリアを買ってくれたことで気持ちが大きく傾きましたね。

無職だった1年間はストレスフリーではありましたが、社会とつながっていない不安は常にありました。そんな時に、自分のこれまでの経歴を評価してもらえたことが嬉しくて、自信を取り戻すこともできました」

施設や人に恵まれ、公私ともに充実

佐藤さんが前職で勤務したグループホームと特別養護老人ホームは、提供するサービスや目的の違いがあり、「特別養護老人ホームもくせい」はグループホームにはない介護用の物品や設備が整っており、看護師などの多職種が連携して介護度が高い利用者のケアにあたっていた。

佐藤:「設備の充実による職員の負担軽減にくわえて、チームでケアにあたれるという安心感は大きなものでした。さらに、『もくせい』の特徴として20代前半の若い職員がとても多く、みんなの介護に対する熱量も高かったです。

ここなら自分だけが頑張らなくても良さそうだとほっとしつつ、前の職場で空回りしたトラウマは少なからずあったので、はじめのうちは一歩引いた立場で、やる気のある若手をサポートする役割に徹していました。当法人は介護施設の他に福祉の専門学校も運営しているので、そこを卒業した若者が多く入職してきます。私の知らない介助法を知っている若手から技術を教えてもらうことも多かったですね」

グループのイベントに参加する佐藤さん
グループのイベントに参加する佐藤さん

開設されて間もない施設だったことから職員の結束は強く、若手職員の多さも相まって仕事以外でも職員同士で遊びに出かけるような近い関係だったという。その仲の良いメンバーの中にいたのが、現在の奥様。同じフロアで働く同僚だった。

佐藤:「入職3年目、32歳の時に結婚して間もなく子どもも生まれました。結婚すると同じ職場で働けない規定だったので、私が同じ法人の『デイサービスセンター もくせい』へと異動。介護職として現場仕事をしつつ、人員の都合でデイサービス部門の生活相談員の役割も兼ねるようになりました。

生活相談員は利用者さんやそのご家族、施設の利用を希望する方などからの相談に対応し、現場との調整を図る仕事です。後に他部門で専任となり、現在までずっと生活相談員の仕事を続けています」

母の難病により環境が一変

職場がデイサービスに変わって2年目のこと、パーキンソン病を患っていた母親が転倒し入院することになった。そこから症状が進行し、介護が必要になったことで佐藤さんを取り巻く環境は急変することになる。

佐藤:「退院しても自宅で転んで再入院を繰り返すような状態で、母は仕事が続けられなくなりました。最初の入院までは症状が落ち着いていましたが、進行性の病気ではあるので、いつかは母も介護が必要になるのかなと予期はしていました。でも、予想以上のスピードで悪くなり、介護が一気に現実的なものとなりました」

病院に長く入院させておくことは制度上難しく、介護施設を探し回るも難病を抱えた母親の受け入れ先は簡単には見つからない。敬愛する母親をなんとかしたいという思いとは裏腹に、佐藤さんは追い込まれていった。

佐藤:「母が入院する病院からは『いつ退院できるのか』と催促の連絡が頻繁にありました。施設に見学に行っても金額的に難しかったり、『その症状では受け入れられません』と門前払いを受けたりで一向に決まらない。自宅に母を呼んで在宅介護サービスでしのげないかなとも考えました。

でも、まだ幼い子どもの世話で大変そうな妻を見ていると、その相談はできなかったですね。家族に頼ることが苦手で、それは子どもの頃に両親が離婚したことも影響しているのかもしれません。母の介護をきっかけに自分の家庭が壊れるかもしれないのが怖かったんです」

極限の状態にあった佐藤さんを救ったのは、以前デイサービスで一緒に働いていた同僚だった。

佐藤:「かつての同僚で、今はケアマネージャーの資格を取得して法人内の別事業で働いている方に間に入ってもらいました。その方がいろいろと動いてくれたおかげで、母の施設が決まりました。もしこの縁がなかったら、どうなっていたんだろうと怖くなります。それほど一人で抱え込むには重い問題でした。今だから話せますが、このまま母と一緒に海に飛び込んだ方が楽なんじゃないかな…、そんな考えが頭をよぎったこともありました」

苦難から生まれた生活相談員としての信念

母親の施設が決まったのと同じタイミングで、佐藤さんの仕事にも転機が訪れる。介護職と生活相談員を兼務していた「デイサービスセンター もくせい」から、生活相談員専任で「特別養護老人ホーム もくせい」へと異動。母親の施設を探すにあたって相談を受ける側ではなく、相談する側になった時の経験が、生活相談員としての佐藤さんの信念につながっている。

佐藤:「自分が施設を探す側になって初めて、当事者になると心に余裕がなくなって周りが見えなくなるということを体感しました。申込みに行った際に『難病だと受け入れは難しい』と、ろくに話を聞いてくれない施設が多くてショックでした。当時の苦しくて悔しかった経験から、生活相談員として自分も過去に同じような対応をしていなかったか、相談者の切迫した心情を慮った対応ができていたかを振り返りました。

母の施設が決まらず八方ふさがりだった時に助けてくれたケアマネージャーの存在に本当に救われたので、同じように悩んでいる方を救えないのなら、私が生活相談員をやっている意味はないと強く思っています」

生活相談員を自分がやることの意義を新たにした佐藤さんの決意は行動となって表れる。以前に比べて、相談者の話を聴く時間が倍近くに増えているという。

佐藤:「とにかく時間をかけてじっくりと話を聴くように意識しています。介護の問題を抱えている人は、何よりまず話を聴いてほしいんです。苦しさを分かってほしいんです。たくさん話を聴いた上で、自死まで考えた自分の経験談を話すこともあります。『佐藤さんに聴いてもらえて救われました』などと、涙を流しながら言ってくれる方もいらっしゃいます」

佐藤さんが勤務する「特別養護老人ホーム もくせい」の母体である「社会福祉法人北養会」では、現在、介護の枠にとらわれない多様な活動を行っている。アパレル企業「アダストリア」による介護職員用ユニフォームの協同開発やプロバスケットボールチーム「茨城ロボッツ」の試合会場で販売するグッズやポスター梱包等の軽作業を「救護施設もくせい」の利用者と共同で行う取り組みなどがその一例。他企業と連携したプロジェクトの多くに中心メンバーとして関わるなど、佐藤さんは生活相談員としてだけでなく活躍の場を広げている。

佐藤:「母が介護施設を立ち上げた時に手伝いたいという思いから飛び込んだ介護の仕事に、気付けば20年以上携わることになりました。これまでの経験を後輩に伝えて、次世代の福祉業界を担う人材を育成することも私の役割だと感じています。

困ったり、悩んだりしている方に寄り添ってしっかり話を聴くという、生活相談員としての信念に間違いはないと確信しています。そのことに母の介護が気付かせてくれました」

介護職員用ユニフォーム制作の会議をする佐藤さん
介護職員用ユニフォーム製作の会議をする佐藤さん

佐藤さんの母親は施設に入居して3年後に亡くなった。尊敬する母をサポートしたい一心で福祉の道を志し、母の病気をきっかけに生活相談員としての確固たる軸を定め、そして今、その想いは後輩へと受け継がれている――。

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