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【つむぐ人】紆余曲折のキャリアをたどりながらも、それが確かな一本の人生として、つむがれていく。

キャリアリサーチLab編集部
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キャリアリサーチLab編集部

『つむぐ、キャリア』では、多様化する過剰な選択肢から選び続けていると、選択結果のあいだに矛盾が生じたり、相容れないものを選んでいたり、これらを新しい文脈で意味づけて、撚り合わせ、調和させることを「つむぐ」と表現しました。

そこで、「つむぐ、キャリア」を実践している方々を「つむぐ人」と称し、その方々にインタビューを行い、自らのライフキャリアとビジネスキャリアをどのようにつむいできたのかをお聞きします。また、今後各インタビューに共通して現れた要素などを専門家の先生方との対談とあわせ、「つむぐ、キャリア」という概念に必要な要素などを具体化できればと考えています。

今回のつむぐ人、くぎみやあおいさん

<つむぐ人プロフィール>
釘宮 葵(くぎみや あおい)
1982年生まれ。獨協大学法学部を卒業後、2005年に株式会社オプトに入社。営業部にて、Web広告を販売する業務に携わる。2009年にオプトを退社後、国際ボランティアNGO・NICE(ナイス)が行う海外ボランティアに参加。ネパール、タンザニアにて活動する。帰国後、Webサイト制作などを行う株式会社ラソナに入社し、営業を担当。2012年に結婚。2014年に長女を、2017年には長男を出産。また、2012年には、ラソナでの仕事の傍ら、農作業を行う福祉系のNPOとのダブルワークをスタート。2021年には、ラソナを退社し、合同会社十色(といろ)の立ち上げに参加。さいたま市浦和区在住。

高校の先生になりたいから一転、Web広告代理店へ

釘宮さんは、子どもと接するのが好きで、幼稚園の先生などの、何かしら子どもたちと関わるような仕事に就きたいと思う時期があった。さらに高校時代の先生との出会いから、将来は高校の先生になろうと真剣に考えたという。

釘宮:「高校時代、私は体育祭の実行委員などをやっていた関係で、自分の学年以外の先生方とも関わる機会がありました。先生たちは、私を生徒としてというよりも、一人の人間、個人として接してくれて、こういう関わり方ができるんだったら、すごく魅力的な仕事だなと思い、高校の先生になりたいと思うようになりました。教育学部を選ぶことはありませんでしたが、大学では教職課程を履修して、教育実習も経験し、教員免許状を取得しています。

ただ、それでも先生になるという自信というか、勇気が持てませんでした。教育実習で子どもたちに触れてみて、全員を平等に接することができるのかという不安もあったし、生半可な気持ちでやってはいけない職業だなという想いが強くて…。いろんな方に相談するなかで、社会人になってから先生になるという道もあると聞き、まずは企業への就職を考えました」

そんな釘宮さんの就活は、メディア系を中心としたものとなった。

釘宮:「父が新聞社に勤務していたこともあり、文章を書くのが好きだったので、何かを発信する側に身を置きたいと考えていました。また、自分の性格から大きな組織で働くのは向いていないと分析していましたし、若いうちからいろんな経験ができるような会社がいいなと思っていました。結果、気がつくとメディア系のベンチャーばかりを受けていました」

メディア系の3、4社から内定を得て、釘宮さんが選んだのが、株式会社オプト。当時、伸び盛りのWebマーケティング企業だった

釘宮:「働いている人がみんな魅力的で、この人たちと一緒に働きたいと、そう素直に思えたのがオプトでした。2次面接が社長面談で、2次から社長が出てくるのも驚きでしたが、その社長とも気軽に話せる場がつくられていました。

社長とは気づかないほどフラットな感じでそこに座っていて、夢もちゃんと語ってくれましたし、仕事が楽しそうだと感じることができました。ここが一番、自分に合っているなと、もう迷いはなかったです」

人と会って、話して、課題解決に導く醍醐味

釘宮さんが配属されたのは、営業部。人材系のクライアントを担当し、バナー広告やリスティング広告などのWeb広告を販売する業務に携わることになる。

釘宮:「営業部が金融系、コスメ系など、業界ごとに分かれていて、私が配属されたのは、人材系の企業を担当する部署でした。当時のオプトは、設立して10年ぐらいの会社だったので、すごく若くて活気のある、勢いのある会社でした。業界的にも、Webがこれから伸びてくというタイミングだったので、みんなで予算を達成して盛り上がっているといった状況でしたね。

そんななか、私は営業担当として、数字を積み重ねていくことに喜びを感じるというよりも、クライアントと会って、どんなところに悩んでいるのかを聞いて、それに対してどういう解決方法が見いだせるのかを、クライアントと一緒に考えるのが好きなタイプでした。人と会って話して、その上で解決していくところに楽しさを感じていました」

そんな釘宮さんも、20代の後半が見えてきた時期に、ずっとこのまま仕事ばっかりしていてもいいのだろうかという想いに駆られることが多くなっていったという。

釘宮:「その当時は、めちゃくちゃ忙しくて、仕事一色の日々を送っていました。そんな様子を見かねたのか、畑を耕して農作物を収穫するような活動をしていた幼馴染みが、自然に触れた方がリフレッシュになっていいよと誘ってくれて、週末にその畑に通うようになりました。入社して2年目から3年目になる頃のことです。

ちょうど、このままでいいのかなって悩んだり、ちょっと疲れたなって思いはじめた時期でした。結婚して子どもを産んだというロールモデルとなる女性社員も、当時(2008年頃)はいませんでしたし、ずっとこの業界にいるのかなと疑問を感じるようになっていました。

将来を考えた時に、ちょっと休憩しようかな、違うことを探してみようかなと思いはじめていたのだと思います」

たどり着いたのは、海外ボランティアという選択

オプトでの勤務を続け、週末の畑仕事にも通いながらも、釘宮さんは、何か将来の自分にとって意味のある、新たな挑戦ができないものだろうかと、その道を模索しはじめたという。

釘宮:「旅行が好きで、年に1回は海外に出かけていました。そこで、もっと長い期間、海外で過ごしてみることを考えて、ワーキングホリデーに行くとか、旅先でよく利用していたドミトリーで働いてみようとか、さまざまな情報を探るなかで、海外ボランティアという選択肢に出会いました。

ワーホリに行っても、目的なく行って帰ってくるだけでは意味がないという想いもあったし、自分がこれまで働いてきて、そういう経験のなかで得たものを活かせる術はないものかと考えたりもしました、そんな時に海外ボランティアを見つけて、自分が海外に行けて、何か役に立てることがあるんだったら、すごいなと。もう海外ボランティアに行くしかないと…」

そこからの釘宮さんの行動は素早いものだった。

釘宮:「すぐに上司に『私、決めました』と…。海外ボランティアに行きたいので、辞めますと伝えました。結局、その年度末まで働いて、2009年の3月にオプトを退職することになります。そう宣言した時から準備をはじめていたので、退職の時点では、行き先もボランディアとして活動する時期や期間も決まっていました」

釘宮さんは、国際ボランティアNGO・NICE(ナイス)が主催する海外ボランティアに参加。ネパール、そしてタンザニアで活動することになる。

釘宮:「ネパールには、子どもに英語を教えるということで行ったのですが、実際に現地で担当したのは、小・中学生に日本語を教えるという業務でした。第3外国語として日本語を学ぶ子どもたちに、ひらがなとか挨拶とかを教えたり、首都のカトマンズから、歩いて40分ほどのところにある町で、学校のすぐ近くの学生寮に、子どもたちと一緒に住んだりもしていました。

ネパールは、私の第二の母国かなっていうぐらいに、すごく肌に合うなと感じていて、ご飯も美味しかったし、子どもたちもすごくかわいくて…。民族衣装をつくってもらったのですが、それを着て町を歩いていると、もう誰も私を日本人とは思わないほどでした。

食堂のおばちゃんがつくってくれるご飯を毎日食べていたので、日本食を口にすることはありませんでした。毎朝、公園でやっているヨガに参加したりして、すごく現地の人に馴染んで、このままあと1年いても、何の問題もないぐらい、めちゃくちゃ楽しく過ごしました」

ネパールで子どもに日本語を教える釘宮さん
ネパールで子どもに日本語を教える釘宮さん

どこに行っても、変わることのない自分という存在

ネパールでの任務を終えると、釘宮さんはドイツを経由して、次の赴任地であるタンザニアに向かった。

釘宮:「タンザニアでは、孤児院の子どもたちと一緒に遊んだり、食事のお世話をしたりしました。ネパールとはまったく違う生活でしたね。NGOの人たちが住んでいる家のすぐ近くに住まわせてもらったのですが、庭には、普通にテナガザルが飛び跳ねている状態で、水道、ガスはなく、シャワーは、ポリバケツの中の水をジャバっとかけるみたいな…。それでも、たぶんアフリカのなかでは、ちゃんとしたお家だったんだろうなあ。太陽光発電で電気も使えたし、ご飯もちゃんと食堂で食べさせてもらっていましたから。

ネパールでは、私一人以外は、全員がネパール人でしたが、タンザニアでは、もう一人の日本人の子とドイツ人の子と、3人で共同生活していました。あとはワークキャンプといって、ほかの国の人たちと一緒に、ボランティア活動をすることもあって、そこでは、イギリスや韓国など、いろんな国のボランティアが集まって、植林のお手伝いをしたりしました。いま振り返ると、たいして英語も喋れないし、よく一人で行ったなって思います。

いろいろと知ってからだったら、おそらく行かなかったでしょう。だけど、勢いで行ってよかったなあと、あの時決断してよかったなって思います。海外の友だちができたり、海外に自分が想像できる場所っていうのかな?こういう場所だよなとか、ここにはあんな人がいるなって思える場所ができたこともそうだし…。

どこに行っても、自分は変わんないんだなって思えたのも大きかったかな。どこに行ったとしても、自分は自分なんだなって思えたことによって、いま自分がいる場所で、とにかく頑張ろうと思えるようになりました。要は、自分は何をしたいとか、自分がどうありたいかというのが大事であって、場所はあんまり重要じゃないんだなっていう」

さまざまな国のボランティアと活動する釘宮さん 
さまざまな国のボランティアと活動する釘宮さん 

釘宮さんは、こんなエピソードも話してくれた。

釘宮:「一緒にボランティアをしていた韓国人の女の子と、ボランティアが終わった後に、アフリカを旅したんですね。滞在したホテルの部屋に細い蛇が出たといって、その子が騒いだことがありました。私は、蚊帳のなかに寝るし、小さなかわいい蛇だから退治する必要もないと言ったんですけど、どうしても退治したいっていうので、私とホテルの人で、外に出したんです。彼女は、葵は本当すごいねと、すごく褒めてくれて…。彼女は英語が達者で、自分よりよっぽど優秀で助けてもらうことが多かったんですけど、その時に思ったのは、“誰でも誰かのヒーローになれるんだな”ってこと。

その後、旅の計画について話している時に、彼女は『私はこの後、バスが通ってないところに行きたいから、ヒッチハイクしようかと思ってる』と言い出したんです。それがすごく衝撃的で!アフリカで女の子が一人でヒッチハイクするって、めちゃくちゃ危ないんですよ。蛇は怖いのに、どうしてヒッチハイクは怖くないの?!みたいな…。誰でもデコボコがあって、そのデコボコがあるから、お互い助け合えたり、誰かの役に立つことができたりするんだな、ということをすごく実感した出来事でした」

Web営業と農業というダブルワークへの挑戦

帰国後の釘宮さんにとって、最初にクリアすべき課題は、新しい勤務先を決めることだった。オプト時代の元上司に、帰国の挨拶を兼ねて、今後についての助言をもらおうと会いに行くと、思いがけない答えが返ってきたという。

釘宮:「その上司は、オプトからの転職が決まっていて、役員として次の会社に迎えられるとのことでした。そして『営業を探しているんだ。新しい会社で一緒に頑張ろう』と、ラソナというWeb制作会社への入社を打診されたのです。

ただ、私としては、Web業界に戻ることにためらいもありましたし、自分は営業には向いてないと思い込んでいたのですが、お世話になった元上司に熱心に誘っていただいたこともあって、1年だけでもやってみようかと、入社を承諾しました」

釘宮さんの株式会社ラソナへの入社は、2010年。広告代理店などの取引先に対して、Webサイトの開発やその運用に関するサービス内容について理解を求め、その利用を促すような業務を担当することになった。

釘宮:「同じWeb業界と言えど、ぜんぜん異なる仕事内容に入社して最初の2年間は、ついていくのに必死でした。オプト時代の知り合いがWeb業界の各所で活躍していて、私を誘ってくれた上司も顔の広い方だったので、彼らからの紹介によって営業先を広げることができました。

そうして営業に専念しながら、少しだけ余裕を持って仕事ができるようになった3年目頃に上司が、『最近、なんか新しくやりたいこととか、会社に対して要望はないの?』と聞いてくれました。ちょうどその頃、週末に通っていた畑のすぐ隣で活動していたNPOが、アルバイトを探しているという情報を耳にしていました。

その上司にも、週末に畑を耕していることは伝えていたので、『そこで働きたいのですが、ダブルワークはありですか?』と聞いてみたら、『いいんじゃない』と、意外にも認めてもらえたんです」

帰国後に入社した株式会社ラソナのみなさん
帰国後に入社した株式会社ラソナのみなさん

そこから、毎週水曜日にはNPOが運営する農園に通うようになり、障がいのあるの人たちと一緒に、草むしりとか種まきとか、畑仕事をして過ごすようになる。

釘宮:「オプトでもラソナでもそうだったのですが、それまでは効率を最優先にして仕事をしてきましたが、その農園ではその考え方が全くありませんでした。それまで常識としてきたことが覆されるというか、常識外のことにもちゃんと意味があるし、そこに楽しさもあるということに気づくことができました。

自分の親世代の人や言葉を発することのない人もいましたが、できる/できないだけで判断するのではなく、どうしたらお互いを活かし合えるんだろうと考えるとか…。ある人の苦手によって、別な人の得意が際立ったり、めちゃくちゃ遠回りして話すけど、それによってその人のことがよく知れたり、違う問題点に気づいたり…。効率のために削ってきたことによって、見えてなかったことが、実は多かったんだなと。

効率よくゴールに向かうことばかり目指してきたけれど、それまでとは異質な人間関係に、いろんなことを気づかされました。さらには、Web業界だけにいたら気づけなかった、自分の強みだったり、自分の個性みたいなものも、認識できるようになりました」

子育てと結果を残せない時短勤務との葛藤

そんな釘宮さんの結婚は、帰国後のことになる。旦那さまとは、オプト時代に知り合った。

釘宮:「私が海外に行く数カ月前から、お付き合いをはじめて4年ぐらい付き合って、結婚しました。海外ボランティアに行っていた時期は、まだ付き合いだして間もない頃だったので、週に1回、ネットカフェに行ってメールを送ったりしていました。それと私は筆まめなので、毎日、日記を書いて1週間分貯めてから、封筒に入れて彼宛に送っていました。

旅立つ直前に、空港からその日記をファイリングできる、空のファイルだけを郵送して。向こうに行ったらしばらくは手紙を出す余裕なんてないだろうから、と出発前も日記を書き溜めて、その日記は事前に友だちに託しておいて、何通かに分けて彼宛に送ってもらいました。最終的に帰国する頃には、もう分厚い一冊の本になっているみたいな、そんなことをしていました」

2012年に結婚され、2014年には長女が誕生。2017年に長男が生まれた。ラソナでは、初めて出産を経験する社員ということで、そこからさまざまな制度が整備され、充実していくきっかけにもなったという。

釘宮:「産休明けは、時短勤務によって働く時間が16時半までになったのですが、それによって出られないミーティングがあるとか、誰かに頼まないといけない仕事が増えて、自分は何も変わっていないのに、どうしてできることが減ってしまうんだろうと悩むこともありました。私としては子どもとの時間も確保したいし、家庭も大事にしたいけど、一生懸命に働きたいという想いもある。

それなのに前と同じようには働けない自分に、不甲斐なさを感じていました。8カ月で復帰しましたが、その8カ月の間に離れてしまうお客さんもいて、また一から新規開拓をすることになり、なかなか芽が出ない状況に、自分は仕事ができないんじゃないかとネガティブに考えることもありました。

それでも、時が経つにつれて新たに仕事をいただけるようになり、自信が取り戻されていくのですが、まだ夜遅くまで対応が必要なこともあり、この業界でお母さんが活躍していくのはハードルが高いと思わざるを得ない、そんな状況がありました。農×地域×女性(母親)、それらの繋がりを活かした仕事ができないものかと新たな活躍の場を模索しながら、ラソナとNPOのダブルワークを続けていました」

そんな悶々とした日々を送りながらも、子育てをしながらダブルワークを続けていくという、釘宮さんのフレキシブルな働き方は、多くの後輩たちにも刺激を与えたことだろう。ラソナでは、ママさん社員が増え、さまざまな働き方が認められるようになって、多くの女性社員が活躍しているという。

「いつの日か」という未来のために生きるのはやめよう

農業と、地域と、女性(母親)。それらの繋がりを活かした仕事を模索し続ける釘宮さんだったが、NPOで一緒に畑仕事やイベントの企画・運営などをしていた同僚が、そのNPOを出て、新たな会社の立ち上げを検討してると聞き決意

釘宮:「コロナ禍でラソナが完全オンラインになって、家の中でずっと仕事をすることになりました。人に会って一緒に解決することが好きだった私にとって、ずっとパソコンの前で仕事をして、ミーティングも画面に向かって話しかけるだけという…。箱の中に閉じ込められているようで、それがすごく苦しくて。

それと、仕事の私とお母さんの私が、ドア1枚だけで隔てられているというのも、すごく辛かったですね。もう、この働き方は限界だなって思っていた時に、独立の話を聞いたわけです。すぐに『私も一緒にやっていいですか?』と…。私自身、いつかは農業とか、地元に関わることがしたいなと思っていましたが、なかなか踏み切ることができずにいたんです。

ところがコロナ禍で世界中の人が、家の中に閉じ込められる。そんな世の中が来るなんて、誰も予想していなかったじゃないですか。だから、いつかの未来のために生きるのは、もうやめよう。やりたいことは、いまはじめようと…!そう決めたらすごくスッキリしました。それを、すぐに上司にも伝えて、数カ月後には新会社を立ち上げました。

仕事をシフトするに際して、特に夫の協力は欠かせないけど、私たちはお互いに好きなものがあって、それに情熱を傾けることに寛容というか、互いに支え合って、応援してあげたいなと思っている。そんな夫婦なんです。だから一番の応援者は、夫かな。日々感謝しかありません」

田んぼで作業する風景
田んぼで作業する風景

合同会社十色(といろ)の設立は、2021年の3月のこと。農業体験と唐辛子の生産を柱に事業を行っているが、その可能性はさらに広がっていくという。

釘宮:「女性3人でスタートしましたが、私はWeb業界、一人は福祉業界、もう一人が元自衛隊と3者3様の職歴で、それぞれの強みも異なり、互いの強みが十分に活かされる3人なんですね。農業体験はいま、家族向けが多いんですけど、今後、インバウンドにも力を入れたいなと考えていたり、新人研修とか会社の研修としても使えるよねとか、婚活と農業も相性がいいんじゃないかとか…。

農業をすることって、いろんな人にとって有意義なことで、そこに広がりがあるだろうと…。一方、唐辛子の生産は、まだそれほど多くの人に認識されているわけじゃないけど、たとえば海外は日本よりも唐辛子を食べる文化なので、いずれは海外に輸出したいという想いもあって、どちらもまだまだ伸びしろがあると考えています」

合同会社十色の3人のメンバー
合同会社十色の3人のメンバー

3人のメンバーに共通するのは、旅行が好きで、それぞれが海外に繋がりを持っていること。それらの強みを活かした事業展開にも、すでに着手しているという。

釘宮:「いま、唐辛子を使って、食文化を通じた海外交流のようなものを、クルドやスリランカの難民のみなさんのご協力を得て、進めようとしています。彼らに、うちの唐辛子を使って、母国のご飯をつくってもらって、それをみんなで味わうというイベントを企画しようとしています。

それぞれの国のご飯を食べながら、その人たちやそれぞれの国や地域について知ってもらって、それぞれの地域が抱えている問題を知って、お互いを理解していくという。それが、次のアクションに繋がっていけばいいなと考えています。唐辛子を通じて文化交流ができたら楽しいですよね!」

合同会社十色で育てた唐辛子
合同会社十色で育てた唐辛子

ライフとワークの隔たりというものを、あまり感じなくなっている。そう釘宮さんは言う。また、オプトやラソナでの仕事も、海外ボランティアの経験も、すべてが繋がって、いまここにたどり着いたと感じている、とも。釘宮さんが、これまでの人生のなかで拾い集めたものたち、いくつもの選択と出会いを経てつむがれた種子が、実を結び花開こうとしているようだ

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