物価高騰や人材不足、最低賃金の引き上げ…。企業を取り巻く環境が大きく変化する中、「賃上げ」に関する悩みや不安を抱える経営者や人事担当者も多いのではないでしょうか。
本企画では、社会保険労務士法人みらいコンサルティングの社会保険労務士が相談事例をもとに、賃上げのタイミングや方法、公平性の確保、トラブル防止策、規定見直しのポイントなど、実務に役立つ視点でわかりやすく解説しています。
「何から手をつければいいのか分からない」「自社に合った対応を考えたい」そんな経営者・人事担当者にこそ読んでいただきたい内容です。
賃上げの適切なタイミング
質問:経営層から賃上げ(ベースアップ)を実施するように指示がきているのですが、賃上げを行う適切なタイミングはいつでしょうか?
回答:必ずしも「この時期に行うべき」という決まりはありません。実務的には、通常の賃金改定時期や会社の事業年度にあわせるほか、初任給引上げをともなうのであれば新卒入社の多い4月の実施などが考えられます。
時間的余裕があるのなら、無計画的に賃上げして後々、失敗・後悔をしないよう、現在抱えている人事施策上の課題、今後の人員計画など十分に検討した上で実施したほうが、賃上げによる投資対効果を最大化できるものと考えます。
検討の結果、「段階的」「部分的」な賃上げという選択肢もありえますし、これを機に、賃上げだけでなく人事評価の仕組みを変えて、制度として事業と連動し、継続的な賃上げを実施していくことも考えられます。
ただし、「最低賃金」に対応するための賃上げは、法改正の時期に確実に行う必要があるので注意が必要です。たとえばパートタイム労働者の時給や月給者の1時間あたり単価が最低賃金を下回る場合、法令の発効日時点で必ず最低賃金以上に改めなければなりません。
<最低賃金とは>
国が定める最低額以上の賃金を支払わなければならず、都道府県ごとに定められる「地域別最低賃金」と業種別の「特定(産業別)最低賃金」があります。
- 時給の場合
時給 ≧ 最低賃金額
- 日給の場合
日給 ÷ 1日の所定労働時間 ≧ 最低賃金額
- 月給の場合
月給 ÷ 1か月平均所定労働時間 ≧ 最低賃金額
- 出来高払制等によって定められた賃金の場合
出来高払制等による賃金総額 ÷ 総労働時間数 ≧ 最低賃金額
※上記はすべて時間額で比較するものです。日額で最低賃金が定められている場合もあります
※都道府県別の最低賃金額など詳しくは下記サイトをご参照ください
厚生労働省「必ずチェック最低賃金」
時給者は毎年しっかり管理していたが、月給者の時給額のほうはうっかり下回っていた、ということのないよう管理していきましょう。
従業員の賃金に対する不満の解消法
質問:物価高騰で従業員から賃金に関する不満が上がってきています。不満を解消するためには、どのような方法が効果的でしょうか?
回答:賃金を上げれば従業員が満足するか、といえば、そう単純なものでもなく、いつ、誰に、どのような施策を実施するともっとも効果が早く、または大きくできるか、施策の優先順位や実施時期を検討していくことが大切です。不満の原因は何か、誰がより大きな不満を抱いているのか、その不満解消のために会社は取り組むべきか、見極める必要があります。
もちろん、賃上げが選択肢のひとつであることは間違いないです。そして、賃上げの方法もひとつではありません。
<賃上げ方法の例>
- 基本給を上げる
いわゆる「ベースアップ」と聞くと、基本給アップのイメージが強いと思います。一律に上げる、段階的に上げる、一部の従業員だけ上げる、などが考えられます。基本給が賞与や退職金に連動しているのであれば、その影響も考慮して検討・決定する必要があります。
- 手当を上げる
既存の手当を増額したり、新たに手当を設けたりすることが考えられます。時限的か恒久的か、将来の基本給アップなども見据えつつ検討をしていく必要があります。たとえば「物価上昇手当」として、いったん支給期限を区切って支給している企業も見受けられます。
- 一時金を支給する
今期は業績がよいが月例賃金をアップするのは将来的にリスクが高いとか、人事評価制度全体を見直す検討期間を設けたいが、今目の前の状況にも対応もしたい、というような状況であれば、一時金で対応する方法もあります。定例の賞与への上乗せや、臨時の賞与の支給などが考えられます。
- 昇給率を上げる
会社への貢献度、人事評価が高い者ほど上げるという方法もあります。今回のみか、恒久的に昇給率を変更するか、という論点があります。
たとえば「不満を抱いている」のが、「会社に高い貢献をしている従業員」であれば、退職やモチベーション低下による会社のリスクは相対的に高くなります。そうすると、上記4で対応したり、1~3の方法であってもほかの従業員と差をつけたりすることが考えられます。
また、「賃金が低い」のではなく、「労働時間が長い」(だから、賃金が低く感じる)というケースもあるかもしれません。この場合、ベースアップよりも労働時間の短縮・生産性向上が本来取り組むべき課題になるかと考えます。もしも、残業代の計算が間違っている、とか、実はサービス残業がある、といった事実があるのであれば、コンプライアンス遵守のために、早急に対応する必要があるでしょう。
誰が不満を感じていて、その不満の原因は何なのか、その不満を解消するために施策を講じるべきか、その不満のふくらみをおさえつつ、ほかの施策で満足度を向上させたほうがよいのか、効果の低い施策を乱発しないための見極めが大切です。
賃金改定における公平性の確保
質問:現在、賃金改定に取り組んでいるのですが、公平性を保つためにはどのような基準を設けるべきでしょうか?
回答:公平性を保ちながら、賃金(処遇)に格差をつける、という難しい課題です。どのような基準によって(当社の賃金制度は)「公平である」とするかは、会社ごとの価値観が反映され、従業員へ向けた重要なメッセージになります。どのような会社でありたいか(他社とは異なる価値、強みは何であり、かつ、生み出し続けていくか)、そのためにはどのような人材が必要か、を踏まえて検討していくことが大切です。
たとえば、「年功序列」と聞くと、昨今ネガティブなイメージで受け取られることも多いですが、その会社の経営方針と合致しており、実際に働く従業員の安心感にもつながっているのであれば、決して否定されるものでもありません。
公平性を保つため、全員一律に引上げる、という方法もありますが、下記のような論点から全体のバランスを考慮していくことが重要です。
<公平性を検討する場合の論点例>
- 年齢(ライフステージ)・勤続年数
- 職種・役職
- 地域ごとの物価水準
- 貢献度
「新卒の初任給引上げ」に対して、既存社員の公平性を保つにはどうすればよいか、を悩んでいる会社も多いと思います。この場合、初任給引上げ額と同額、全従業員の賃金を引上げる、という方法がまずは考えられます。また、年齢や勤続年数によって引上げ額に傾斜をつけたり(若年層は高め、高年齢になるにつれて低めにするなど)、従業員を一定基準で区分する「等級制度」を設けている会社であれば、等級ごとに傾斜をつけたりすることが考えられます。
もしかすると、賃上げをしたとしても、一部従業員は公平感を感じず、不満を抱いたままかもしれません。しかし、賃上げ額それ自体ではなく、「どのような賃上げをするか」=「社員にどのような能力・行動・実績を期待しているか(その結果として処遇が変わるか)」が、従業員との中長期的な関係性に影響するメッセージになります。
そのためには、賃上げと同時に、何かの手当を減額・廃止する、ということも考えられるでしょう。何が当社にとっての公平か、基準づくりと従業員への伝わり方は、会社が持続的に成長するためにとても大切なポイントとなります。
賃金トラブルを防ぐための会社の対策
質問:従業員との賃金に関するトラブルを未然に防ぐために、会社としてできる対策はありますか?
回答:従業員との賃金トラブルでまず考えられるのは「未払賃金」「不利益変更」、そして「同一労働同一賃金」です。これらは会社と従業員の関係性だけでなく、「法令」が関わってくるからです。まずはこれらのトラブルを未然に防ぐためのコンプライアンス遵守体制が求められます。
- 未払賃金
最低賃金や割増賃金の計算ミス、あるいは、労働時間の切り捨てなどが原因として挙げられます。自社の基準が法令を下回ることのないよう実態を検証し、就業規則や労働条件通知書の整備、勤怠管理・給与計算システムの設定状況の確認をしておきましょう。
- 不利益変更
会社が一方的に労働条件を低下させることを(労働条件の)「不利益変更」といいます。「制度を変えたので、今月から〇円減額」のような状況を指します。会社にとっては制度を変更したのだから、という理由があるかもしれませんが、従業員個人にとっては突然の、納得のいかない変更と受け取られるかもしれません。
また、たとえ合理的な理由(会社の経営状況など)があったとしても、説明責任を果たし、従業員の同意を得る努力をしなければ、モチベーションの低下や退職、または訴訟等に発展してしまうかもしれません。
もしも労働条件を低くせざるを得ない場合、そもそも労働条件を変更する必要性はあるのか、結果として誰がどれだけの不利益を受けるのか、変更後の就業規則等の内容は従業員に著しく不利なものではないか、労働者への説明会・交渉は実施しているか、などを加味して、代替措置や調整期間を設けつつ、従業員の理解を得る努力が求められます。
- 同一労働同一賃金
パートタイムや有期雇用などいわゆる「非正規」の従業員を雇用している会社の場合、「正規社員だけ賃上げ」が果たして認められるか、という論点です。まったく同じ仕事をしているのであれば処遇も同じ水準を、異なる仕事をしていてもバランスのとれた処遇で、という考え方です。たとえば「物価が上がっているから」という理由で一時金を支給しようとしたとき、パートタイムには支給しないというのは、なかなか合理的説明がしにくいかと考えます。
以上3点は「法令」が関わる最低限の論点、リスクヘッジです。さらには、当社の人事制度ではどのような人材が評価され、どう処遇されるかを明文化しておくことも重要ですし、それらが共有されるために、日ごろからの会社(経営者・管理職)と従業員のコミュニケーションが大切だと考えます。
※ 同一労働同一賃金について、詳しくは下記サイトをご参照ください
厚生労働省「同一労働同一賃金特集ページ」
賃金改定のポイント
質問:現在、賃金に関する社内規定の見直しを行っております。改定時のポイントを教えてください。
回答:いわゆる就業規則、賃金規程の見直し、ということだと思いますが、下記のポイントを踏まえて、見直しをすすめるとよいと考えます。
- 法令にのっとっているか
コンプライアンス違反のないよう、最新の法令が反映されているかの確認が必要です。なお、従業員代表への意見聴取や労働基準監督署への届出、事業場内周知など、規程を有効とするために必要な手続きもしっかりと踏まえましょう。
- 自社の実態にのっとっているか
「〇〇手当を支払う」と規定されているが、実際はすでに廃止されている、というようなことはないでしょうか。規程=契約(労働条件)ですので、常に実態に即した内容にしましょう。
- 不利益変更や拡大解釈のリスクはないか
先述した不利益変更に該当しないでしょうか。もしも該当しそうであれば、代替措置などを検討する必要があります。また、会社の意向とは異なる解釈がされないよう、手当など各種労働条件の適用対象者の基準や支給制限(たとえば、欠勤控除の取扱いなど)の書きぶりにも注意しましょう。
- 自社の将来へ向けた整備がされているか
現状だけでなく、数年先を見据えた規定内容になっていますか。調整のための一時的な施策であれば、その旨も明記しておきましょう。
賃上げを実施する際は、一過性のものではなく事業の現状や組織の未来を見据えて施策を決定しないと、単なるコストアップで終わってしまいかねません。賃金制度そのものについて十分に検討し、適切な時期、適切な対象者に、適切な額を「投資」していく、という考え方が大切だと考えます。
また、賃上げの背景には「人材不足」という問題を抱えている企業が多いかと推察します。賃上げだけでなく、人事施策全体(人事評価制度、定年制度、正社員転換制度、採用施策など)や、業務フロー見直しによる省力化・生産性向上を検討する機会かもしれません。
<質問回答>
社会保険労務士法人みらいコンサルティング
全国各地に拠点を持ち、多様な専門性を持つプロフェッショナルがチームである「みらいコンサルティンググループ」の一員として、お客さまの課題に総合的アプローチしています。労務管理制度や人事制度の構築・改定支援や組織づくり、チーム力を生かしたIPOやM&A、組織再編支援など、お客さまの人的資本の向上支援をしています。