近年、職場において多様な働き方や価値観、国籍、言語だけでなく、宗教文化の違いが日常の業務や働き方に影響を及ぼす場面が増えている。日本では宗教の話題がタブー視されがちであるが、たとえば昼食の時間に何を食べるか、どのような服装をするか、あるいは会議のスケジュールをどう組むかといった些細なことにも、宗教的な価値観が関係してくることがある。
こうした違いに戸惑いを感じるのは自然なことである。しかし、誤解や摩擦を避けるためには、まず「知ること」が出発点となる。そしてもう一つ重要なのは、宗教文化を単なる制度や慣習として捉えるのではなく、それを背景に持つ人間を、顔と名前のある一人ひとりの個人として理解する姿勢である。宗教文化の理解とは、相手の人間性を尊重することであり、職場における信頼関係の構築にも直結する。
本コラムでは、全4回のシリーズを通して、日本人が職場において知っておくべき宗教の知識について紹介する。第1回となる今回は、宗教文化に関する基礎知識がなぜ今、職場で必要とされているのかを解説する。グローバル化が進む中で、職場はこれまで以上に異文化との接点となっている。その中で宗教文化の理解は、円滑なコミュニケーションと信頼の土台を築くために欠かせない要素である。
異なる文化を受け入れるということ
理由は分からずとも言葉の違いは受け入れる
英語を学ぶとすぐ、動詞を3人称単数の現在形で用いるときは語尾に「s」を付けると教わる。英語はそうなのかとすぐ受け入れる人もあれば、なぜそんな面倒くさい決まりができたのか疑問に思った人もいるだろう。大学でドイツ語やフランス語、あるいはスペイン語などを学ぶことになった人は、名詞に性があると言われ、これまた面倒に感じたかもしれない。
たとえばドイツ語では普通名詞が男性、女性、中性の3つに区分される。「父」が男性名詞で「母」が女性名詞なのは分かるが、「コーヒー」は男性名詞で、「バナナ」は女性名詞で、「ビール」は中性名詞と言われると、「なぜ?」と言いたくもなる。いわゆる文法は言語ごとに独自な体系があるので、釈然としないルールがあっても、それを受け入れるしかない。
外国語として学ぶと厄介に思われるこうした文法の細かな決まりも、その国に育った人は自然に習得するから、なぜそうなったかといった疑問はふだんあまり抱かない。そのため、名詞に性がある国に育った人は、英語のように名詞の性を区別するのは止めましょうと言われると、たいていが反対するに違いない。
日本語を学ぶ外国人もいろいろ戸惑うことがある。よく耳にする例を挙げると、モノを数えるときの「本」の発音の仕方である。「いっぽん」「にほん」「さんぼん」といった具合に、「ほ」「ぼ」「ぽ」の3通りの発音がある。日本人の多くはそれを不思議に思わないので、外国人からどうして同じ「本」なのに読みが違うのかと聞かれて初めて気づく人もいる。
日常的な習慣の思わぬ違いに気づいたとき
異なった文化を理解するときの厄介さの大きな理由の1つはここにある。日常的に習慣としてやっていることは、なぜそうするのかあまり考えることがない。周囲の人が皆そうしていれば、それが普通のこと、当たり前のことである。だが、留学、国外勤務、国外移住などで、新たに住むことになった社会での生活習慣に馴染んでいないとき、考えてもみなかった発想法の違いにいろんな場面で接することになる。ときには驚いたり居心地の悪さを感じたりする。
文化は人間がそれぞれの環境に対応して築いてきたものとはいえ、異なった文化でもかなりのことは互いに了解可能である。どんな味の食べ物をおいしいと感じるか。どんなメロディーの曲をテンポよく感じるか。これらにはかなりの普遍性がある。甘いものが受け入れられるのはどの文化であれ共通しているが、これは甘味を感じる受容体は人間には一種類しかないことによろう。また親しい人を亡くしたときの悲しみの感情にも普遍性がある。いきなりの怒鳴り声に直面したときの不安や怒りの感情も共通しているだろう。
他方で、それぞれの文化は独自の価値観を築きあげているので、その価値観に馴染んでいないと違和感を持ったり、ときには不快な気持ちになったりする。固有の価値観を伴う独自な文化の典型例が宗教文化である。
気付きにくさがもたらすカルチャーショック
近代になって国際化が進行すると、文化ごとの違いに自覚的になることを求められる場面が増えた。最初に挙げた言語の例はもっとも分かりやすいが、それぞれ異なった言語体系を持っていると分かれば、それを理解するしかない。多くの外国語を学べば、必然的にそういう発想法になる。また食べるものや食事の作法も違いが目に見えるので、なんとか工夫するようになる。箸を使ったり、フォークを使ったり、スプーンを使ったり、それぞれの食事法に慣れようとする。
食事作法、服の種類、挨拶の仕方などは違いが視覚的に捉えやすいので、お互い何が違うか気づきやすい。ところが厄介なのが、教えてもらわないと気づきにくい価値観の違いに出会ったときである。戒律上食べてはいけないものがある場合。同じく服装で禁じられていることがある場合。あるいは女性は僧侶に手を触れてはならないとか、礼拝の場所が男性と女性とで異なるといった決まりがある場合など。これらは宗教的価値観によって生まれた違いなので、その宗教の基礎知識がないと、なぜそのような決まりがあるのか困惑する人もいる。
対応に戸惑うのは仕方がないにしても、そうした違いがあること自体に、拒否感や嫌悪感が生まれたりもする。これがカルチャーショックと呼ばれるものをもたらす。相互理解がうまくいかないとイスラモフォビア(イスラム教やムスリムに対する恐怖や偏見のこと)に代表されるような、毛嫌いや嫌悪の感情が高まりかねない。ヘイト問題の源にもなる。
グローバル化の進行で浮上してくる宗教問題
宗教習俗は文化の中に積み重ねられている
宗教の戒律や宗教的習俗はどれも長い歴史があって、家庭や地域の共同体、信仰共同体などによって受け継がれている。小さいときから教われば自然に受け入れる。それを次の世代に伝えるのが当然と思う。そうしてとくに意識することなく日常的に繰り返される言動になっている。
江戸時代、日本人の多くは生まれた地域で育ち、生活し、そこで死んでいった。滅多に遠方に行けなかったから、信仰に基づく有名な社寺への参詣は、遠出のかっこうの口実でもあった。寺院に身分を証明させる寺請制度(檀家制度)がキリシタン対策として確立していたので、キリシタンでないことを証明する寺請証文を檀那寺(家単位で代々檀家となっている寺)から出してもらい、それを携える必要もあった。
明治以降、寺請制度がなくなり、旅行や移住は各段に自由になったとはいえ、多くの人は生まれ故郷で生涯を過ごした。国外から日本を訪れる外国人も少しずつ増えたが、戦前までは周囲に外国人が住んでいる経験を持つ人は、全体として非常に少なかった。この状況が大きく変わったのが戦後社会、とくに高度成長期以後である。
国際化にグローバル化が加わる中の宗教習俗
2020年の東京オリンピックはコロナ禍で1年延期されて開催された。コロナが流行しなければ2020年の訪日外国人は年間3千万人を超えると予想されていた。ちなみにその前回の東京オリンピックが行なわれた1964年だと、日本を訪れた外国人はわずか27万人である。高度成長期が終わった直後の1978年には訪日外国人は1千万人を超し、その後も増え続けた。コロナ禍が収束した2024年には4千万人を超える外国人が日本を訪れた。1960年代と2桁も違う。
1990年代以降は国際化に代わってグローバル化という視点が注目を集めるようになった。国境を意識することなく多くの国の人たちと接する機会が増えた。地球規模で人口移動が急激に進行し、日本でもこれまでになく異なった宗教文化を持った人びと同士が、日常的に接する機会が増えた。
グローバル化ではまずは経済分野におけるグローバル化が先行した。どこの国で作られ、どこの国で加工されたかを確かめることなく食品を手に入れられる。生産過程を確かめることなくスマホやパソコンや車を購入するのが当たり前になった。これが文化にも及んできた。同じ学校や職場に多様な国籍の人がいることも増え、宗教文化のグローバル化をもたらしている。
国外からの就労者が日本に定住するようになると、その子どもたちが日本の学校で学ぶ。日本では宗教的戒律を厳しく守るような人はあまりいないが、たとえばイスラム圏の子どもたちであると、親から戒律を教えられるので、それを守ろうとする。また日本で働くイスラム教徒が死亡すると、埋葬や墓地問題が浮上してくる。イスラム教徒は土葬なので、これが地域社会との軋轢を生みつつある。
譲れない部分への気づき
「郷に入らば郷に従え」という言葉がある。グローバル化が進む中に、国外から日本に住むようになった外国人は、言葉、食生活、法律や社会のルールなど、日常生活におけるたいていのことはそうせざるを得ない。そうすることで社会生活における摩擦は少なくなると思われる。
ただ信仰に関わることの中にはそう簡単に日本の習慣に従うわけにはいかないものがある。これは国外で住む日本人でも同じことである。ハワイやカリフォルニア、南米に住む日系人の中には、今でも現地に建てた仏教寺院を参拝する人がいる。ハワイには神社もあって、ここに初詣する日系人もいる。
日本で育った日本人でも、自分はキリスト教徒なので神社には行かないという人もいる。グローバル化時代になっても、宗教に関わることは、基本的に互いに譲れないと思っている人がいなくなることはない。小さい頃から両親によって、あるいは地域社会によって育まれてきた深い信仰を大事にする人は、まったく異なった宗教文化が支配的な国に住んでもそれを守ろうとするのは自然なことである。
日本は異なる文化にも寛容だという人がいるが、それは地理的条件ゆえ今まで異文化に接する機会が乏しかったことが関係している。現にグローバル化が進行し始めると、これまで馴染みの少なかったイスラム教徒が増え始め、それに警戒心を抱く人も少なくない。
近年、世界的に自国の文化や利益を優先しようとする風潮が高まりつつあり、それに伴って異文化への警戒心や距離感が社会の中で顕在化してきている。日本においても、宗教文化に対する理解不足や不安感が、時に誤解や摩擦を生む要因となっている。
たとえば、イスラム教徒の墓地問題はその一例である。イスラム教では土葬が基本であるが、日本では火葬が一般的であり、土葬に対して違和感を持つ人も少なくない。中には「日本文化とは相容れない」といった意見も見られるが、江戸時代までは日本でも土葬が主流であったという歴史的事実を知らないことに起因する場合もある。
ただし、土葬に対する懸念は必ずしもイスラム教徒への拒否感だけではない。現在の日本では土葬が法律で全面的に禁止されているわけではないが、土地の確保や衛生面の課題から、自治体によっては制限されているケースもある。特別な届け出や設備が必要となることもあり、地域社会との調整が求められる。こうした制度的・環境的な事情から慎重な対応を求める声も存在している。
基本的知識を豊かに
事態を正確に見極める
言語でも食べ物でも、世界中には多種多様なものがあるが、違いがあること自体を否定しても仕方ない。世界中の人が同じ言語を使おうとか、料理の素材や料理法を統一しようなどと主張する人はいない。あるいは特定の言語を使えなくしようとか、特定の料理法しか認めないにしようなどとも主張されない。ところが話が宗教になると、他の宗教を排斥するとか、国教を決めるなどの例はあちこちにある。
宗教団体を名乗っていても、テロを起こしたり詐欺的行為を繰り返すような組織はある。それらに対する取り締まりや対処は当然である。だが自分たちと価値観が異なるとか、異なった信仰だからといった理由で互いに排斥を始めたら、それこそ宗教が紛争や戦争の引き金になりかねない。歴史上それに近いことが実際起こっているので、これからはそういう事態が生じないような手立てを考えなくてはいけない。
人間は未知のもの、自分がまったく理解できていないものに対しては、本来的に不安感や恐怖心を抱く。それゆえこれまで日本社会で日常的に接してこなかった宗教が周囲に増えてきたとき、ちょっとした出来事で排斥やヘイトが生じやすくなる。同様のことはグローバル化の進行によって世界中で多発するようになっている。
日常生活で必要な宗教知識を身につける
1つ具体例を挙げると、「近くにモスクができると、テロリストが集まってきそうで怖い」という不安は、実際に何度か耳にした。ムスリムがなぜ日本にもモスクを建てようとするかについてまったく知識がないと、そのような見方も出てくる。ムスリムにとってモスクは彼らが大事にする集団礼拝に必要な施設なのである。
どのような宗教の場合であっても、信者一人ひとりの性格や生き方は非常に異なる。暖かい心を持ち他人に親切な人もいれば、利己的で犯罪にすら手を染める人もいる。気を付けなくてはいけないのは、日本の法に触れるような行為をしたり、日本社会のルールを破るような外国人がいたとき、その人の行為をある国や民族のせいにするといった思考法である。
こうした社会の急激な変化の中で、宗教問題に関して必須になっていることは、宗教や宗教文化についての基礎知識をできる限り豊かにすることである。日本に存在するすべての宗教については無理だが、イスラム教を始め、東南アジア、南アジアなどに信者が多い上座仏教やヒンドゥー教などにはもっと関心を寄せた方がいい。これらの国々との経済交流、文化交流、なによりも日常的付き合いの場が、今後は拡大の一方となるからである。
訪日外国人の総数としては中国や韓国などが多いが、東アジアの宗教文化は日本の宗教文化と比較的近く、歴史的な関わりも深い。中国から伝わった大乗仏教や儒教などは東アジア共通の宗教文化である。それでも現在の展開には大きな違いがある。檀家制度は日本独特で中国や韓国にはない。似ているがゆえに気づきにくい違いもある。
これらは教理や教学の話ではない。日常的な言動の中に潜む宗教文化である。お互い意識していないということが誤解のもとになる。違いがあることを理解し、不要な摩擦が起こらないようにそれぞれの宗教文化の基礎知識を広げることが第一である。ここには日本の宗教文化への知識を深めることも含まれている。
井上順孝(いのうえのぶたか)
1948年生。東京大学大学院中退、東京大学助手、國學院大學教授を経て、現在國學院大學名誉教授/博士(宗教学)/(公益財団)国際宗教研究所・宗教情報リサーチセンター長/宗教文化教育推進センター長/アメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員/元「宗教と社会」学会会長、元日本宗教学会会長
主な著書に『認知宗教学から見る現代宗教』法藏館 2025年/『神道の近代――変貌し拡がりゆく神々』春秋社 2021年/『グローバル化時代の宗教文化教育』弘文堂 2020年/『世界の宗教は人間に何を禁じてきたか』河出書房新社 2016年/『本当にわかる宗教学』日本実業出版社 2011年 など