社会人の継続的な学びや、学び直しがその人のキャリアや人生にもたらす変化について考えるシリーズ。前回は文部科学省で社会教育施策に取り組む林さんに、社会教育の意義や展望を伺いました。(記事はこちら)今回は、その第4弾として、在野研究者の荒木優太さんにお話を伺います。
「学び続けたい」という思いはありつつも、日々の忙しさの中で「何を、どう行動すればいいのか」と立ち止まってしまう人は少なくないでしょう。そんな中、大学などの組織に属さず、独立した立場で研究活動を行う在野研究というスタイルが、新たな学びの選択肢として静かな注目を集めています。
在野研究とは、一体どのような活動なのか。日々の暮らしの中でどうやって時間を生み出し、知の探求を続けるのか。その秘訣について『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』の著者である荒木さんに、在野研究の魅力や具体的なノウハウ、そして学びが人生に与える影響を伺いました。
荒木優太
1987年東京生まれ。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期博士課程修了。2015年、「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」で第59回群像新人評論優秀賞を受賞。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『無責任の新体系』(晶文社)、『有島武郎』(岩波新書)、『サークル有害論』(集英社新書)など多数。『在野研究ビギナーズ』(明石書店、第38回雑学出版賞受賞)、『プロレタリア文学セレクション』(平凡社ライブラリー)の編者もつとめる。最近はYouTubeチャンネル「荒木優太」とともに軽出版刊行物『文芸時評傑作選~炎上の炎に焼かれてアチチの巻~』(在野研究社)の自主的な制作・販売にも力を入れている。
大学に所属せずに経済的に独立して行う知の探求とは?
質問:まず、初めに在野研究とはどのようなものか、荒木さんが在野研究者を名乗るきっかけについて教えてください。
在野研究とは
荒木:在野研究は、第一義としては大学の外で学問的な研究をすることを指します。これは私が創り出した言葉ではなく、既存の文献でも使われている言葉です。私との結びつきが強くなったのは、その言葉の復活の糸口を作ったから、という理解の方が正確でしょう。
大学の先生は大学に所属して学生に何かを教えることで給料をもらい、研究をしています。在野研究の場合はそういった組織に所属しないで、多くは研究とは関係ない仕事をしながら、余暇や空き時間を見つけて大学の先生と同じような研究を行います。つまり経済的な意味で大学から独立している場合に、私は在野研究という言葉を用いることが多いです。
歴史をさかのぼってみると、「在野」という言葉は、政府や権力的な体制の外にあるものとして、もっというと体制側を批判する文脈で使われがちでした。平たくいえば「あっち(大学)は悪で、こっち(在野)は善だ」というような使い方です。
ただ、私としてはそうではなく、もっとニュートラルな言葉として在野研究を捉え直すことを重視しています。大学に対してポジティブであれネガティブであれ、さまざまな感情を持つ人がいる中で、単に「大学の外で研究をしている」という状態を示す言葉として、まずは使ってみてはどうか、というのが私の考えです。
また、在野研究の特徴を「明後日の研究」と表現したこともあります。研究者は「明日」に縛られているように見えることがあります。喫緊の課題や明日どうやって食っていくかという経済的な縛りに汲々(きゅうきゅう)とせざるを得ないことが少なくありません。
在野研究者ももちろん同様の困難を抱えもするのですが、大学に属していないからこそ、別の時間のリズムで研究を続けられるのではないか。明日ほど緊急性は高くないけれども、長い目で見て人類にとって重要なテーマに取り組むことができる。その象徴として「明日じゃなくて明後日なんだ」と言ったことがあります。
在野研究者になったきっかけとは
荒木:私自身が在野研究者を名乗るようになったきっかけは、大学院で学んでいた際に、指導教員の方針で博士後期課程への進学を断念してしまったことにあります。後期課程に行くには教員免許が必要だというポリシーを持つ先生だったのですが、私はあまり中高の先生になることに関心がなかったので、そこで頓挫してしまってフリーになったわけです。
しかし、研究をしたいという意欲は変わらずありましたので、どこにも属していないけれども研究はしたい、そういう自分を自己紹介できる言葉はないかと探して、在野研究者という言葉を使い始めました。
かつては研究者と名乗ると「大学に属しているものだ」と理解する人が多く、「大学に属していないのに研究者というのは身分詐称ではないか」というような疑いの目でみられることもありました。たとえば、「在野なんてつけずに、ただ研究者と名乗ればいいじゃないか」といわれることもありますが、そのアドバイスどおりにしたらそれはそれで難癖をつけられるわけです。そういうわけで、在野研究者という肩書きを使い始めました。
ある在野研究者の1日の流れと研究の進め方
質問:日々、研究をしながらその他の活動を両立するのも大変だと思うのですが、どのように研究の時間を捻出されているのでしょうか、また1日のスケジュールを教えてください。
午前は労働、午後は研究
荒木:代表的な流れをご紹介すると、朝6時くらいに起きて清掃労働をするため職場のマンションに出勤し、清掃やゴミ出しといった仕事をやります。それが12時くらいに終わって家に帰り、昼食を取って、午後は資料の整理や原稿の執筆などを中心とした研究活動に取り組むというような毎日を過ごしています。
数年前と変わったのは、人に何かを教える仕事が増えてきたことです。たとえば、オンラインで人文学の授業をしたり、YouTubeのメンバーシップ用に自分が最近考えているテーマについて1時間から1時間半くらい中間報告をしたりしています。本になる手前の調査の中間報告です。また、最近は大学の非常勤講師として論文の書き方を教えることもあります。
研究者一般に言えることかもしれませんが、いわゆる仕事と休暇の区別はかなり曖昧です。特に私の場合は文学に関係する仕事が多いので、書評を依頼された場合など小説を読むことが仕事になることもあれば、単に読みたい本を読んでいるときもあります。でも、その読書体験が別の原稿を書くときの原稿の材料として使えたりもするので、やっぱり仕事とそうでないものをうまく分けられないですね。
研究の進め方とは
荒木:私の研究の進め方は、気になったキーワードを図書館のシステムで検索して、出てきたすべての書籍を手元に並べ、1冊ずつページをめくっていきます。その上で、自分にとって意味がある本と意味がない本に分類していき、共通するテーマや未だ埋められていない謎みたいなものを見つけ出します。「それは何で埋められていないんだろう、何をすれば埋められるだろう」と考えて、また違う文献にアクセスしていく、その繰り返しですね。
研究成果を発表することの意義と効果
質問:研究と単純に学ぶことの違いの一つに、研究成果の発表というものがあるかと思います。荒木さんにとって研究成果を発表するというのは、どのような意味がありますか。
荒木:私にとって、研究の成果を発表することには、いくつかの意味があります。
一つは、際限のない研究に、ある種の区切りをつけることです。研究というものは、突き詰めようと思えば無限に続けられてしまうところがあって、どこで終わりがあるのか分かりません。それでは自分自身でもまとまりがつかないし、周りから見ても「結局、何をやってるの?」と疑問を持たれてしまいます。
そこで、発表という場を設けることで、強制的に一つの単位を形成することができます。原稿に文字数制限があるから、我々はある程度の形にまとめようとするのと同じで、それをもって一旦の終わりとする、というのが発表の意義の一つかなと思います。
もう一つは、もっとシンプルな話で、自分が知らなかったことを発見した喜びと言うか、「こんな発見をしたよ!」ということを誰かに言いたい、という気持ちです。「これ知ってた?」みたいな、多くの人が持っている感覚に近いかもしれません。
今の二つは私自身の話ですが、一般的に研究をする人にとっての発表の意義ということで言うと、「他者との交流のきっかけになる」ということも大きいと思います。研究をしているときって、結構孤独なんです。
特に新規性を求めれば求めるほどマニアックな方向に行きがちで、「このことを調べているのは自分しかいないんじゃないか」と、仲間がいないように感じて、やる気を失ってしまうこともあるかもしれません。でも、外に向けて発表してみると、その内容の細部に関心を持ってくれる人が出てきたりするんです。「実は私もそこに関心があって」というような人が現れると、研究を続ける上でかなり大きな助けになるんじゃないかなと思います。
あとは、特にこれから研究を始めてみたいという人にとっては、研究の作法を学ぶ良い機会になると思います。研究者って、どんな新しい発見をしたかということよりも、まず論文の体裁、つまり「どういうふうに形式を整えているか」ということに注意が向く生き物なんです。
この作法は分野によっても、もっと言えば先生の所属グループによっても違ったりするのですが、同じような関心を持つ人が集まる場で発表をすると、そこで求められる形式性、体裁の型というものを学ぶことができます。
在野研究だからこそ実現できる自由なテーマ設定
質問:社会人が継続的に学ぶという視点で見たときに、在野研究だからこそ実現できることや効果、人生に与える影響などはありますか?
人生に与える影響
荒木:根本的に、在野研究は好きでやっていることだと思うんです。やらなかったからといって、誰かに怒られるようなものではない。本人が好きだからやっている、ということが根本的なモチベーションです。だとしたら、それを充足できている状態というのは、必然的にかなり楽しい状態にあるはずなので、単純に人生が楽しくなるという効果はあると思います。
反対に、やりたいと思っていないのに「やらねばならない」という気持ちで在野研究を選んでしまうと、その人にとってはかなりつらい日々が待っているんじゃないでしょうか。私がよく言うのは、「別にやめたかったら今すぐやめていいのが在野研究ですよ」ということです。その程度のものとして捉えるのが、ちょうどいいと思います。
自由にテーマを設定できる
荒木:在野研究だからこそ実現できることとしては、やはり「テーマ設定の自由さ」が挙げられます。
たとえば、成人向けマンガの研究などは、なかなか大学の中ではやりにくいかもしれません。一見、卑俗に見えたり、あるいは民俗学の中でもセクシャルな領域に接近するようなテーマは、大学では取り組みにくい側面があると思います。そういった研究を学問的にやりたい人にとっては、在野研究が有意義であると言えるし、むしろ在野研究ぐらいしか選択肢がない、ということもあるんじゃないでしょうか。
もともと、好事家とかコレクターと呼ばれる人々の営みが担ってきたことでした。彼らは論文を書かないので、いわゆる研究者であるというふうには見なされないんですが、学問的な枠組みや論じ方といった作法をプラスでインストールすることができれば、研究者にもなれるわけですね。彼らがそうしたいかどうかは別問題ではありますが。
社会人が活かせる在野研究の実践的ノウハウ
質問:何か学びたいという社会人が活かせる在野研究のテクニックやノウハウがあれば教えてください。
荒木:近年、デジタルアーカイブの充実度は大きく向上しました。その中でも、国立国会図書館のデジタルアーカイブは使わない手はないと思います。みなさんに助言したいのは、ぜひ「国会図書館のカードを取得してください」ということです。
身分証さえあれば半日ぐらいでできるはずなので、そんなに手間はかかりません。一度カードを作ってしまえば、家からアクセスしてみられる資料の幅が飛躍的に広がります。昔のことを調べながら今を考える、というような研究スタイルの方は、ほとんど例外なく利用価値があるんじゃないでしょうか。
それから、やはり、仲間を見つけるといいと思います。一人で研究を進めることの気軽さもありますが、どうしても視野が狭くなってしまったり、自分の言っていることが他者に理解されるのかどうかが分からなくなったりします。雑談程度でいいので、話題を共有できる環境を整えるか、自分からそういう場に入っていくことで、研究のクオリティは大幅に変わってくるかなと思います。
仲間探しの具体的な方法としては、まず、関心のある分野の研究会に行ってみることです。学会よりも、もう少しこぢんまりした研究会の方が、話は弾むかもしれません。発表が終わった後に「大学には属していないのですが、先生のお話に非常に関心があって……」と挨拶してみるといいでしょう。嫌な顔をする研究者はほとんどいないと思います。
もう一つは、ブログなどである程度まとまった長い文章を書いておくこと。それが名刺代わりになって、学会の先生の目に留まり、発表の機会につながることもあります。
情報収集や研究の具体的なツールで言うと、デジタルの話とは逆になりますが、実際に「本屋の棚の前でウロウロする」というのも有効だと思います。研究の面白さというのは、まさかこれとこれが結びつくとは思わなかった、というような予期せぬ発見にあるので、重要かどうかわからないものも含めて、とりあえず一度、視界に入れてみるという作業は大事です。
デジタルツールでは、最近のスマートフォンの機能がかなり良くなって、写真から文字を認識できるようになりました。これは引用するときに非常に使い勝手が良い方法です。
気になったページをカメラで撮って、その場でテキストを選択してクラウド型ドキュメントツールなどに貼り付けておけば、ページ数も記録されますし、すぐに研究ノートとして保存できます。パソコンが不調になっても文書は消えないし、どの端末からでも同じファイルにアクセスできるので、非常に作業効率が上がりました。
学びの形は人それぞれ。趣味が学びに変わる瞬間を楽しむ
質問:これから何かを学びたい、何か行動をしたいと考えている方に「在野研究」という選択肢を伝えるとしたら、どんなメッセージを送りますか?
荒木:これは後押しにはならないと思いますが、「二の足を踏んでしまう」人に対してなら言える言葉はあるかもしれません。
どういうことか。私がなぜ在野研究を志しているかと言うと、要するに「在野研究ぐらいしか人生でやることがないな」と思っているからなんです。人付き合いも上手くないし、就職もできないし、モテないし、自分の人生には何もないな、と。
私は人生を諦めている男なわけです。でも読みたい本や書きたい本があるから、まず研究ぐらいはやるか、やってから死ぬか、と思ってやっている。つまり、私の場合は選択肢がないから在野研究をやっているわけです。
反対に、在野研究に対して二の足を踏んでしまう人というのは、おそらく、人生において他にいろんな選択肢や守るべきものを持っているんだと思うんです。たとえば、家庭があってパートナーのことも考えなければいけないとか、仕事で出世したいとか。それって、悩めるぐらいのものを「持っている」ということですよね。私からすれば、それは素晴らしいことだから、ぜひそちらを頑張ってほしいと思うわけです。
ですから、極論、人生を諦めたら在野研究では最強だと思いますよ。私がそうであるように。でも、私みたいになりたいですか?って話ですよ。だから、在野研究に対して二の足を踏むぐらいが、人生にとってはちょうどいいのかな、と。そう捉えると、在野研究ができない状態もハッピーだし、在野研究ができる状態もハッピーなので、つまるところ、どちらでもいいんじゃないでしょうか。
私が在野研究の歴史を調べ、数多くの在野研究者を取材してみて素晴らしいなと思ったのは、彼らに共通する考え方や生活スタイルといったものが、全くないということでした。学問との関わり方も本当に人それぞれで、千差万別。もし共通点があったら、それはある種のイデオロギーの表出になってしまいますが、そうではない。
在野研究というのは、それ自体が何かを表現しているというより、本当にただの箱でしかなく、中立的な意味での手段でしかない。それはかなり健全なあり方だと思います。私にとっては「終わらない学びの中で生きること」は比較的魅力的な生き方ですが、みんながそう感じなければならないわけではないし、そもそも何を学びとするかは人それぞれだと思っています。私の場合、小説を読むことは仕事にもつながりますが、ある人にとっては単なる娯楽かもしれません。
しかし、その娯楽が積み重なれば仕事になる可能性もあるわけで、その道筋を最初の最初から見通すことはできません。突き詰めた結果が後に学びや研究として形になることもありますし、もっといえば、ならなくても意味はあります。研究に関係するかどうかでものごとの価値が決まると考えるのは研究者の悪い癖です。
パチンコで人生を棒に振ったっていい。没頭して詳しくなれば、パチンコだってやり方次第で研究になるでしょう。結局、大事なのは一生懸命取り組むことで、その先に研究というアウトプットが待っているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、そうじゃない場合も、それは決して不幸なことではないということです。