上司や同期、職場の人間関係は私たちに何をもたらすか-文学から考える‘働くこと’

キャリアリサーチLab編集部
著者
キャリアリサーチLab編集部
文芸批評 奥憲介氏

<著者>文芸批評 奥憲介
会社員として勤務する傍ら、文学評論を行う。文芸誌、新聞、ウェブメディア等に批評・エッセイを寄稿。営業、人事、教育、総務など幅広い実務経験をもとに、「働くこと」と文学に関する論考も執筆している。著書に『働く文学―仕事に悩んだ時、読んでほしい29の物語』(東海教育研究所、2017年)、『「新しい時代」の文学論――夏目漱石、大江健三郎、そして3.11後へ』(NHKブックス、2023年)

働くことは、報酬や成果、効率性といった要素だけでは語り尽くせない、複雑で私的な営みです。だからこそ、理論やハウツーだけではとらえきれない悩みや迷いが生まれます。

本連載では、働く人々を描いた文学作品を手がかりに、「働くこと」とは何か、そして働くことが私たちの生き方とどう結びついているのかを考えていきます。

職場の人間関係とは何か

働いていく上で、職場の人間関係はとても重要です。退職理由のアンケート調査などを見ると、「人間関係」はたいていベスト3には入っています。

仕事が上手くいった、楽しい、あるいはつらい、つまらないといった出来事がある時、上司や同僚など誰かがいつもそばにいるものです。自分に能力や意欲があっても職場での人間関係のためにそれを活かすことができなかったことや、自分には無理だと思った仕事でも、周りの助けがあって切り抜けられたことなど、誰しもがさまざまな経験や思いがあるはずです。

職場の人間関係とは、単なる好き嫌いや相性の問題ではありません。私たちがどのように仕事をし、どのように働くのかを支えている、職場の人々とのさまざまなつながりのことです。

絲山秋子『沖で待つ』に見る同期との関係

同期という特別な関係

『沖で待つ』絲山秋子著 文春文庫
絲山秋子『沖で待つ』文春文庫

そんな職場の人間関係の中でも、とりわけ同期というのは特別です。同級生に近いようで、少し違う。友達や仲間、ライバルというのでもない。同じ会社に入り、右も左もわからない新人時代をともに過ごした者だけが共有できるもの。それを思い出させてくれるのが同期という言葉ではないでしょうか。

同期とは、自分で選んだわけではない、偶然に巡り合った一度きりの関係です。必ずしも仲がいいとは限らない。何年も会わないこともある。それでも同じ時期に同じ場所から社会人として歩き始めたという記憶は簡単には消えません。

絲山秋子さんの『沖で待つ』(2005)は、そんな同期との関係を描いた作品です。

主人公・及川は住宅設備機器メーカーに女性総合職として入社し、配属された福岡支社で同期の太っちゃん(井口)と出会います。見知らぬ土地。何もわからない不安。二人は営業の厳しい現場で苦楽をともにし、困ったときには助け合い、「何だってしてやる」と思えるほど信頼しあう関係になりますが、恋愛感情はありません。

二人は、もしどちらかが突然死んだら相手のパソコンのハードディスクを壊して秘密を守る、という約束を交わします。誰しも死んだ後になっても人には見られたくない秘密があるものです。あいつなら秘密を秘密のままちゃんと消し去ってくれる。家族でも恋人でもないからこそ、それを頼める。

その後、太っちゃんはビルから飛び降りた人物の巻き添えとなり、突然亡くなります。私は彼との約束を果たすため、意を決して合鍵で彼の部屋に入り、パソコンを処分します。

よーいドンのまっさらで対等な関係

1986年に男女雇用機会均等法が施行されました。作者の絲山さん自身、均等法施行から4年目に女性総合職として住宅設備機器メーカーに就職されています。いわゆる均等法第一世代です。全国で女性の同期は10人程度だったそうです。女性総合職という新しい存在を、会社も周囲もどう扱っていいのかわからない。黎明期の女性総合職の苦労は、体験した人でないとわからない。主人公の及川は、そんな絲山さんの経歴と重なっています。

物語の軸になっているのは、一見すると、新入社員が仕事を覚え一人前になっていくという、‘よくある‘ストーリーですが、その過程には、働く女性としてのつらさや気負いが隠されていることを思います。

会社という組織は、基本的に役割や立場によって支えられています。上司部下や役職など公的な関係性に加えて、派閥や情実、年齢やジェンダーなど目に見えにくい力関係が加わってきます。能力や意欲、経験よりも組織のしがらみや個人に関係のないものに縛られる。

きっと及川も太っちゃんも、そんな複雑な大人の世界に入り込んでいきながら右往左往していたことでしょう。しかし、二人でいる時だけは別です。

「同期って、不思議だよね」「いつ会っても楽しいじゃん」「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんな知ってるんだから」

同じ風景を共有し、近くで仕事に向き合い、相手のいいことも悪いことも受け止めてきたからこそ、二人の間には役割や立場、利害やしがらみ、男女というものからも解放された損得抜きの関係ができた。この作品が描いているのは、力関係や恋愛中心の人間関係観に束縛されない、よーいドンのまっさらで対等な関係です

もちろん、すべての同期の関係がそうではありません。及川と太っちゃんの‘美しい‘関係は、現実にはなかなか得られないものかもしれません。しかし、そこには同期という特別な関係の本質がとらえられています。

戻る場所があるということ

物語の最初と最後は、死者となった太っちゃんと現在の私が語る場面になっています。出会ってから10年くらいの期間が経っている。亡くなった太っちゃんの思い出を反芻しながら、私はこの間さまざまな変化があったことを思います。転勤、仕事、役割、人間関係、自分自身…。

しかし、太っちゃんとの関係だけは変わらない。彼との思い出は、変わったものと、変わっていないものを教えてくれる。沖合いに浮かぶ舟はいつもそこに碇泊していてくれる。だから自分がそこからどれだけ遠ざかったのか、どの方角に流れていったのかがわかる。舟がそこにあることを時々思い出すことができれば、まだやっていけると思える。迷えば、そこを目指して戻ってくればいい。

絲山さんの作品を借りて言えば、同期という存在は、まさに沖に浮かぶ舟なのだと思います。

「覚えている?最初に福岡に行ったときのこと」 「おう。覚えてるよ」 それなら何も言い足すことはありませんでした。

物語の最後。私は亡くなった太っちゃんに「私たちの原点」をたしかめ、再び新しい日常へと歩き出していきます。

津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』に見る先輩・上司との関係

もっとも身近な存在

津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』集英社文庫

もうひとつ職場の人間関係と聞いて思い浮かぶのは、先輩・上司という存在でしょう。同期は会社の力関係とは違うところで結び合えるインフォーマルで対等な関係でしたが、先輩・上司は組織や仕事の中心にあるフォーマルな関係で、誰にとっても身近なものです。

仕事を教わったり、指示を受けたりするという日々の関係ですので、良くも悪くももっとも大きな影響を受ける。そんな先輩・上司との関係を描いた作品があります。津村記久子さんの『ワーカーズ・ダイジェスト』(2011)に収められている「オノウエさんの不在」という短編です。津村さんといえば、働く人々の機微を描くのが抜群に上手い作家です。

建築会社で働くサカマキは、新人時代に仕事を教えてくれた先輩のオノウエさんをとても尊敬しています。オノウエさんは学閥が幅を利かす会社にあって、下請け企業から入社し、今は隣県の支所の技術課長にまでなっている。サカマキにとってオノウエさんは、キャリアも仕事への姿勢も、そして人間性もすべてにおいて指針、お手本ともいえる存在です。

ある日、オノウエさんが会社から“干されている”という噂を耳にします。 その知らせに動揺したサカマキは、同じくオノウエさんを慕う同期のシカタ、総務のしぎ野とともに情報を集めます。すると、どうやら、これまで誰よりも仕事に身を捧げてきたオノウエさんが、生まれたばかりの子供のために有給休暇を取り過ぎたことがきっかけらしいということがわかってきます。

彼ら三人は会社のやり方に怒りを感じつつ、心のどこかで自分たちもオノウエさんに見放されたという複雑な感情を抱きます。いつも仕事を優先し、自分たちの支えになってくれた人が、もっと大切なものを見つけ離れていってしまったというさみしさと裏切られたという思いです。

もらったものはここにある

オノウエさんは会社を辞めてしまいます。尊敬し頼っていた先輩がいなくなる。しかし、そのことで残された三人は、これからは自分たちの力で新しく進んでいかなくてはならないことに気づきます

ある日、サカマキは仕事で失敗をして落ち込んでいる後輩を見かけます。その後輩の姿にかつての自分を見た時、彼はオノウエさんがもういないのだということをありありと感じます。

昔、自分のミスが原因で周囲とつまらない諍いを起こし、会社を辞めようと思い詰めていた時、オノウエさんが背中を叩き、声をかけ励ましてくれた。「べつにいいだろうなんでも」「おまえみたいに戦う必要なんてない」。その時の記憶が、彼の中に鮮やかに残っています。

サカマキは、自分を責めつづける後輩に「べつにいいだろうなんでも」と、かつてオノウエさんからかけてもらった言葉を口にします。その時、彼はオノウエさんが自分に残してくれたものが何なのか、ようやくわかります。

次は自分が支える番なのだ。オノウエさんはいないが、彼からもらったものはここにある。

職場の人間関係という無数の物語

私にも似たような経験があります。20代で営業をしていた頃、失敗を誰にも言えず抱え込み、かえって大事になってしまい、思い詰めて上司に相談しました。彼は私の話を聞いた後、𠮟責もせず、理由も聞かず、ただ一言「しんどかったな」と声をかけてくれたのです。何ということもない言葉かもしれませんが、若かった私には忘れられない言葉となりました。

私はいまでも、時々あの上司の「しんどかったな」という一言を思い出します。仕事の知識や技術は時間がたてば忘れてしまうこともあります。しかし、誰かにかけられた一つの言葉や、一つのまなざしは、不思議なほど長く心に残るものです

振り返ってみると、さまざまなところでこれまで出会ってきた先輩や上司の影響を感じます。もちろん、いいものばかりではありません。つらかったこともあった。それでも、傷ついたり、助けられたりしたそんな経験の重なりが、私の‘働くこと‘を育ててくれたのだと思います。

仕事を通して誰かに育てられ、その受け取ったものをまた別の誰かへ手渡していく。そのつながりの中で、私たちは少しずつ働く人になっていきます。職場の人間関係という言葉の背後には、働く人の数だけ、大切な記憶を巡るまだ語られていない物語があります。

矢部栞
担当者
キャリアリサーチLab編集部
SHIORI YABE

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