はじめに
「35歳転職限界説」「キャリアは一貫していなければならない」といった、キャリアについて語られるこうした言葉を、どこかで一度は耳にしたことがある人もいるのではないだろうか。実際、転職を考え始めた瞬間に「もう30代だから」「年齢がネックになるのでは」と不安が先に立ち、本格的な情報収集や行動に踏み出せなくなるケースは少なくない。
この不安は、単なる気の持ちようではないかもしれない。上司や先輩、同僚からの体験談、インターネットやSNSで目にする情報、自身の過去の成功事例や失敗談などが積み重なり、「そういうものなのだ」という空気が作られていく。その結果、私たちはいつの間にか、通説を常識として受け取ってしまう。
ただ、その前提は本当に現在の状況を正しく映し出しているのだろうか。本稿では、こうした通説を「キャリアにおける神話(本稿では、キャリア神話と呼ぶことにする)」として位置づけ、一例をマイナビキャリアリサーチLabのデータと照らし合わせながら検討していく。
「キャリア神話」とは何か
本稿における「キャリア神話」とは、法律や制度として定められているわけではないが、多くの人が正しいことだと信じ、判断の前提として共有している考え方(通説)を指す。重要なのは、キャリア神話が必ずしも根拠のない虚構ではないという点だ。多くの場合、その時の環境では一定の合理性を持っていた考え方が、形を変えながら残り続けたものだと言える。
こういった通説は、不確実な状況をわかりやすく整理してくれる。「何歳までなら大丈夫」「これを超えると難しい」といった明快な線引きは、判断を単純化し、不安を一時的に和らげてくれる。正解が見えにくいキャリアの世界では、こうした通説は大きな安心材料になりやすい。
しかし、その分かりやすさは、ときに現実と大きく乖離する場合がある。強く信じれば信じるほど、私たちはそれ以外の可能性に目を向けなくなる。たとえば、「30代だから転職は無理だ」と考えてしまえば、求人サイトを調べることも、転職市場の変化に触れることもなくなるかもしれない。そうして、先に「結論」を作ってしまい、行動を縛ってしまうのだ。
現在耳にするキャリア神話が生まれ、長く残ってきた背景には、日本の雇用の歴史がある。新卒一括採用や年功序列、長期雇用を前提とした時代には、新卒(若いうち)に入社し、同じ会社で経験を積み上げていくことがもっとも合理的だった。また、成功した人の話はテンプレート化されやすく、「こうすればうまくいく」という物語が語り継がれる一方で、失敗談も強い印象を伴って共有される。こうした情報の偏りも、キャリア神話を強化してきた。
本稿は、こういったキャリア神話を否定することが目的ではない。その前提がいまの環境でもあてはまるのかを問い直したいと思っている。
事例:「35歳転職限界説」」は本当か?
一例としてキャリア神話の中でも根強い、「35歳転職限界説(30代を過ぎると転職はできなくなる)」を取り上げたいと思う。「転職できるのは20代まで」「30代は即戦力でなければ転職が厳しい」といった言葉は、聞いたことがある人も多いのではないだろうか。
これらが広がった背景には、日本における新卒のポテンシャル採用を重視する時代の採用慣行があるかもしれない。経験が浅くても、将来性を見込んで採用し、社内で育成するというモデルでは、若さは重要な評価軸だった。30代以降になると、企業も個人も「それなりの実績があるはず」という期待を持つため、そのハードル(期待)を超えられない場合には「年齢が問題だ」と判断されやすくなる。
また、30代~40代はライフイベントが起きやすい時期でもある。結婚や出産、子育て、住居購入などが重なり、「失敗できない」という心理的な制約が強まる。その不安を説明する言葉として、「年齢の壁」がわかりやすかったといえる。
データからみる30代の転職市場
ここでは、マイナビキャリアリサーチLabの「転職動向調査2026年版(2025年実績)」を見ていく。2025年の正社員の転職率は7.6%で過去最高水準である。年代別に見ると、20代の転職率が2024年と比べ低下した一方で、30~50代の転職率は2024年より増加しており、ミドル層以降の転職が活発化していることが分かる。【図1】
【図1】正社員の転職率/マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」より抜粋
つまり、「30代を過ぎると転職できなくなる」のではなく、転職は30代で止まらず、40代・50代にも広がりをみせているというのが実態に近い。
また、転職可能だと思う年齢を聞くと、年齢が上がるごとに転職ができる年齢が上昇していることがわかる。たとえば20代では、先のことを想像することは難しく30代が転職の限界と考えてしまうかもしれないが、自身の年代があがるにつれて周囲の転職状況などを鑑み、自身の可能性が広がっていると感じているようだ。【表1】
| 単位:% | 20代 | 30代 | 40代 | 50代 |
|---|
| 20~25歳 | 2.7 | 0.2 | 0.0 | 0.5 |
| 26~30歳 | 16.4 | 1.9 | 0.0 | 0.5 |
| 31~35歳 | 18.7 | 7.1 | 0.5 | 0.5 |
| 36~40歳 | 26.3 | 25.9 | 5.9 | 0.5 |
| 41~45歳 | 3.6 | 15.3 | 13.8 | 0.5 |
| 46~50歳 | 19.1 | 22.6 | 40.1 | 9.8 |
| 51~55歳 | 2.7 | 3.8 | 12.2 | 21.2 |
| 56歳以上 | 10.6 | 23.3 | 27.6 | 66.3 |
【表1】あなたは人生で何歳まで転職できると思うか/マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」より抜粋
あわせて、年収の面をみてみると、転職後に年収が上がっているのは20~40代で、全体で19.2万円上昇している。【図2】
【図2】転職後の年収変化/マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」より抜粋
もちろん、すべての転職が年収アップにつながるわけではなく、役職や職種による差も存在する。しかし、「30代以降は条件が下がる」というイメージだけで語るのは、現実を単純化し過ぎていると言えるだろう。
なぜ30代以降の転職が「難しい」と感じてしまうのか
それでもなお、多くの人が30代以降の転職に強い不安を感じてしまうのはなぜなのか。同調査によると、年代が上がるにつれて転職理由の質が変化していることがわかる。
全体を通して「給与が低かった」「仕事に不満があった」といった目の前の就業条件に起因する理由が中心であるものの、30代以降になると「今後の昇進や昇給が見込めない」といった、中長期的なキャリア展望に関わる理由が目立つようになる。【図3】
【図3】20代・30代の転職理由(上位抜粋)/マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」より抜粋
40代・50代の転職理由(上位抜粋)/マイナビ「転職動向調査2026年版(2025年実績)」より抜粋
こうした理由の変化は、単なる意識の問題というよりも、企業の評価や処遇との関係性の中で生まれていると考えられる。30代以降になると、働き手は「これまでの経験がどのように評価され、将来どのような役割を期待されているのか」を強く意識するようになるが、その際に明確な見通しを持てない場合、「現在の会社ではキャリアが描けない」「先が見えない」といった不安として表面化する。
その結果、転職理由として語られる言葉も、待遇への不満から、評価や成長の見通しに関するものへと変化していく。裏を返せば、これは30代以降の転職市場で企業が重視するポイントが、単なる経験年数や肩書きではなく、「これまでどのような役割を担い、どんな課題にどう向き合ってきたのか」「その経験を環境が変わっても再現できるのか」といった、より具体的で再現性のあるものへと変化しているといえるだろう。
キャリア神話は、数多く存在する
ここまで、「35歳転職限界説」「30代を過ぎると転職はできなくなる」について取り上げたが、これは数あるキャリア神話の一例にすぎない。たとえば、「最低でも3年は同じ会社に勤めるべきだ」「出世を目指さないのは意欲が低い証拠だ」など、キャリア神話は多く存在する。
キャリアの悩みを個人の努力不足や能力不足だけで説明してしまう前に、その判断を支えている前提自体を見直してみる。そうした視点を持つことで、次の選択肢を見つけるきっかけになるかもしれない。
前提を更新することは、選択肢を増やすこと
キャリア神話は、不確実な状況を分かりやすくし、私たちを安心させてくれる一方で、前提が変わったあとも信じ続けると、現実との差が広がり、選択肢を狭めてしまうリスクがある。
今回紹介した「35歳転職限界説」というものも、データに照らせば、そのまま受け取るには慎重さが必要なことがわかる。転職は30代で終わるわけではなく、40代・50代にも広がっている。重要なのは年齢そのものではなく、自分自身が「これまで何を行い、どんな価値を提供してきたか」をどう捉え直すかだろう。
キャリア神話を疑うことは、不安を煽りたいからではなく、自分の判断を縛っている前提を見直し、必要であれば更新することで、より多くの選択肢を持つためにある。いま抱えている迷いは、能力の問題ではなく、信じてきた前提の問題かもしれない。その可能性を視野に入れることから、次の一歩は始まるのではないだろうか。
キャリアリサーチLabでは、今後もキャリア神話を取り上げる予定だ。