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人的資本の情報開示とは
近年、人事界隈で話題になることが多い人的資本の情報開示。何となく聞いたことがあるという方も多いのではないだろうか。元は海外の企業投資において財務諸表の健全性や企業の成長率に加え、企業価値を高めるものとして企業ブランドや優秀な人材といった無形資産の重要性が高まり、投資家への情報開示の必要性が高まったことに端を発している。2018年には国際標準化機構(ISO)が人的資本の情報開示のためのガイドライン「ISO30414」を発表し、具体的な内容が示されている。日本国内でも2021年に東京証券取引所が「コーポレートガバナンス・コード」を改定、2023年からは金融庁が大手企業4,000社に対し、3月以降の有価証券報告書に人的資本の情報開示を義務づけるなど、整備が進んでいる状況だ。
人的資本について詳細に説明するとそれだけでページが埋まってしまいそうなので、詳細説明は弊社「マイナビ健康経営」に委ねるとして、今回はこの情報開示に人事部署が関わる割合が高いことから、人的資本の情報開示に対する企業の現状や理解度を各種調査資料で紹介すると共に、採用の文脈で人的資本を扱う際のポイントについて記載してみたい。
人的資本開示の現在地
先ずはアビームコンサルティングが2022年9月に日本企業の大手人的資本経営関与者399名に調査した結果を紹介する。前述のガイドライン「ISO30414」に基づいて社内外に情報開示を行っている企業はわずか11.3%で、「未検討」が9.5%、「情報収集・検討中」が42.9%と、半数(52.4%)の企業が情報まだ開示していない。【図1】この調査対象は年間の売上が1,000億円以上ある大手企業とすると、有価証券報告書に何らかの情報を開示する必要がある企業だと推察されるが、2022年9月時点でそれでもまだ半数の企業は情報を開示していないことになる。
次に弊社が2022年12月に実施した「企業人材ニーズ調査」で人事担当者2,170名(上場610名・非上場1,560名)に聞いた結果を紹介したい。こちらは中堅中小企業の人事担当者も含まれているため、「そのような動きがあるのを初めて知った」が39.8%、「知ってはいたが、自社では何も準備していない」が39.2%と、未対応の企業が約8割を占めている。一方で「知っていて、(一部でも)情報公開の準備を進めている」が14.6%、「知っていて、すでに(一部でも)情報公開を行っている」が6.4%と、2割の企業は何らかの情報開示を進めていることが分かる。【図2】上場企業に限定すれば3割強だが、こちらも情報開示が進んでいるとは言い難い。このように、世間を騒がせてはいるものの、まだ情報をしっかり公開できる状況にまでは至っていないことが分かる。一部の企業では開示項目のデータそのものを取得できていないケースも散見され、まだ道半ばといったところだろうか。
具体的な情報の公開検討状況
続いて同じ企業人材ニーズ調査から「知っていて情報公開の準備を進めている+知っていてすでに情報公開を行っている」と回答した人事担当者に限定して「今後どのようなステークホルダーを対象に人的資本関連の情報を公開していきたいと思うか」を複数回答で聞いているので、確認してみたい。人的資本の情報開示本来の目的としては投資家向けが主たる対象ではあるが、株式未公開の企業や中小企業の担当者も含まれているため、総じて投資家に向けた情報公開の意思は低い結果となっている。
一方で従業員向けの情報開示は企業規模に関係ないからか、全般的に高かった。特に情報開示に前向きな項目は「組織文化」(56.0%)や「ダイバーシティ」(55.6%)、「スキルと能力」(55.5%)に「リーダーシップ」(55.5%)が同率で上位に挙げられており、組織へのエンゲージメントや従業員満足度、自己成長の促進などを通じて、社員の成長や定着を促進したいという意向が見られる結果となっている。
求職者向けの情報開示に関してはやや項目が異なる。上位には「採用・異動・離職」(56.2%)や「組織の健康・安全・福祉」(52.9%)、「後継者育成」(52.7%)が挙げられている。トップに挙げられた「採用・異動・離職」に含まれるポジションごとの候補者数、内部流動率などは公開しても問題ないところだが、離職率や離職理由、自主退職率などについては、これまでの人事であればどちらかというと公にしたがらない情報であろう。【図3】一方、多くの求職者から離職率などのデータを求める声は昔から存在していた。今回の人的資本の情報開示が進むことで、このような一見すると企業にとってはマイナスな情報についても少しずつ開示されていくことで、企業・求職者双方のミスマッチが減る取り組みにつながる可能性は出てきている。
採用・異動・離職 | ポジションごとの候補者数、内部流動率、離職率や離職理由、自主退職率等 |
組織の健康・安全・福祉 | 業務上アクシデント数・死亡者数、従業員の健康・安全関連研修受講比率等 |
スキルと能力 | 人材開発費、学習・開発の平均時間等 |
ダイバーシティ | 従業員や経営層の年齢・性別・障害の有無等 |
コスト | 総人件費、外部人件費、平均給与と報酬の比率、採用費・離職費等 |
労働力確保 | 従業員数、派遣社員数、外部労働力、休職者数等 |
後継者育成 | 後継者の有効率、カバー率等 |
リーダーシップ | リーダーシップ開発、管理する従業員数、経営層への信頼等 |
コンプライアンスと倫理 | 外部との係争数、従業員の倫理関連研修受講比率、違法行為数等 |
組織文化 | エンゲージメント、従業員満足度、コミットメント、リテンション比率等 |
生産性 | EBIT、収益、売上高、1人当たり利益、人的資本ROI等 |
次に求職者向けの情報開示に関してもう少し詳しく見ていきたい。「情報開示項目が求職者の入社意欲向上につながるか」という観点で聞いた設問を前問同様の条件で再集計した結果を見てみよう。こちらでは「(とても+まあ)効果があると思う」で比較してみると、「コンプライアンスと倫理」(68.4%)がもっとも高く、「スキルと能力」(65.6%)、「ダイバーシティ」(65.2%)と続く。コンプライアンス重視の体制や社員への積極的な人材育成の姿勢を見せることで、健全な企業のイメージを伝えられればPRの効果があると考えていることが分かる。
一方、求職者・従業員・投資家の観点で比較した前問では上位に挙げられていた「採用・異動・離職」(62.4%)は7番目となっている。改めて「求職者の入社意欲向上」に効果があるかと問われると、離職率などのデータなどは出しにくいと感じたのであろう。【図4】
企業が求職者に人的資本情報を公開していくには
人的資本の情報開示についてはまだ道半ばではあるが、少しずつ開示に向けた準備が進んでいることは間違いない。同じ情報開示でも、積極的に開示したい情報とできれば開示したくない情報があることもこの調査で見えてきている。積極的に開示したい情報が多い「コンプライアンスと倫理」「スキルと能力」「ダイバーシティ」「組織文化」については開示できる情報から速やかに公開し、社会的責務を果たす企業であることをアピールした方が良い。一方、「採用・異動・離職」や「組織の健康・安全・福祉」の項目には開示したくない情報もいくつか含まれる。これらについてどのように開示していくかは悩ましいところだ。そこで、特に求職者に向けて人的資本に関係する情報を開示する際の3つのポイントをお伝えしたい。
先ずは人的資本関連の情報収集を
現時点では8割の企業が準備を進めておらず、そもそも提示できる情報もあまり収集できていない状況であることは明白だ。情報収集を行っている2割の企業でも、収集した情報が十分とは言えないだろう。また、今回の「ISO30414」の内容は国際規格なので、日本企業では取得していないデータや、存在はしているが集約していないデータなど多く存在する。そのすべてを収集・整理するのは容易でないため、まず社内に存在する未集約の情報や、各データとの連携が可能かどうかを把握してみていただきたい。
それらの情報をつなげて収集できると、社外に向けて発信時の表現方法が大きくひろがる。たとえば、会社全体の離職率が5%としか把握できていないとする。これを各部署別・年代別のデータや退職時にヒアリングした退職理由などと連携して見られるようになれば、年代ごとの離職率とその理由を分けて説明することが可能になり、求職者に提示する方法が大きく増えることになる。これらの情報は検討の結果、開示しない選択も想定されるが、少なくとも社内の環境改善や経営者の意識改革には有効に働くデータになるので、決して無駄な作業にはならないだろう。先ずは社内情報の収集をお願いしたい。
RJP(リアリスティック・ジョブプレビュー)を意識して
前述した通り、以前から求職者の要望として離職率や残業時間といった情報の開示を望む声は多く、これらの情報を事前に把握できないまま入社後にミスマッチを感じる求職者も少なからず存在していた。情報を開示したからといってすべてのミスマッチが解消されるわけではないが、今回の人的資本の情報開示をきっかけに多くの企業が情報を開示するようになれば、初期段階のミスマッチを減らすことは可能になるだろう。
また求職者と求人企業の関係において、根底に必要なものはお互いの信頼だ。短期間に相互理解を深める採用において、まず企業側が胸襟を開いて情報を開示する方が良い。開示に当たってはPRしやすい情報とできれば隠したい情報を織り交ぜつつ、真摯な姿勢で情報を開示すると良いだろう。
企業にとっても①事前に情報閲覧段階で脱落する人材がスクリーニングされ、②出しづらい情報を開示してくれている企業姿勢に信頼をよせ、③面接等でより深い相互理解が得られるといった効果を得ることができる。
「情報を秘匿して多くの母集団を集める」より、「ある程度現状を理解した少数の志望者を集める」方が双方に良い結果を生じさせるのである。
隠したい数字を出すときは改善施策とセットで説明
ある会社のホームページに「離職率10%」とだけ表記されたら、結構高い割合だと感じてしまうかもしれない。しかし、「離職10名中1名(10%)」となれば随分印象が異なる。このように数字は出し方によって、大きく印象が異なるものだ。規模の大きな会社であれば性年代別に提示することで、さまざまな求職者の視点に応える提示も可能になる。このように表現方法についても求職者の立場に立って検討する必要がある。
また、数字だけだと独り歩きをしてしまうケースも考えられる。特に新卒の場合、社会人経験がないため、数字を判断する基準を持っていないことも多い。そのため、より丁寧に説明を加えたり、場合によってはホームページでの掲載ではなく、オンラインセミナーや面接等の対面で説明できる機会に数字を開示したりすることも有効な手段だ。どのような理由での退職であったかを、口頭で個人情報や守秘義務の範囲を十分考慮した上で説明することも可能だ。
また、それでも社会一般から見てまだ足りていない数字もあるだろう。そのような場合は、これから会社としてどのように取り組んでいくかという施策とセットにして説明することにより、決して蔑ろにしていないという姿勢を伝えられる。いずれの場合も、真摯な姿勢で数字を公表していくことで、求職者との信頼関係が生まれ、ミスマッチの少ない採用が行えるようになるだろう。
人的資本の情報公開はまだスタート地点に立ったばかり。この情報開示が、株価や求職者との関係構築にどのような影響を及ぼすのか、これから知見がたまっていくであろう。こちらの効果についても今後継続的にご報告できるよう、努めていく。
キャリアリサーチLab所長 栗田 卓也