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【つむぐ人】移住先の町を、家族を、明るく照らすこと。それは、自分にしかできない想いを叶えることでもあった。

キャリアリサーチLab編集部
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『つむぐ、キャリア』では、多様化する過剰な選択肢から選び続けていると、選択結果のあいだに矛盾が生じたり、相容れないものを選んでいたり、これらを新しい文脈で意味づけて、撚り合わせ、調和させることを「つむぐ」と表現しました。

そこで、「つむぐ、キャリア」を実践している方々を「つむぐ人」と称し、その方々にインタビューを行い、自らのライフキャリアとビジネスキャリアをどのようにつむいできたのかをお聞きします。また、今後各インタビューに共通して現れた要素などを専門家の先生方との対談とあわせ、「つむぐ、キャリア」という概念に必要な要素などを具体化できればと考えています。

つむぐ人 プロフィール
廣瀨 啓太(ひろせ けいた)
1987年生まれ。山口大学を卒業後、大手旅行会社に入社。東京でインバウンド事業に携わる。その後、Web制作会社の新規事業ディレクター、インテリア会社の海外バイヤーを経て、2023年にフリーランスとして独立。屋号は、nicika(ニシカ)。Web制作、家具・インテリアの商品開発、英語通訳・翻訳、インバウンド事業などを幅広く展開する。大分県玖珠町在住。

好きな英語を活かして、世界とつながる仕事を

廣瀬さんは、大分県大分市の生まれ。大学進学にあたってもっとも重視したのは、「語学の学び」を得られることと、一人暮らしをするということ。得意な英語を活かして国際系の学びが得られる場所として選んだのが、山口大学経済学部だった。

廣瀬:「まず、地元を離れて自活をしたい、という気持ちが強くありました。そのため、大分から離れた大学に行きたいというが最初にあり、結果的に山口へ行きました。山口大学では、 経済学部の中にある観光政策学科に進んだのですが、けっして観光や旅行に興味があったわけではなくて、九州の近場でもっとも英語が勉強できそうな場所を選んだということになります。

基本的には、英語を学ぶ授業を中心に受けて、4年間を過ごしました。そして、就職にあたっても『英語が使える会社』『海外とつながれる仕事』という軸で就職活動をしています」

大学時代のフィジー短期留学

英語を活かして仕事ができる場所として、廣瀬さんが想起したのが旅行、総合商社、国際物流といった業界だったという。

廣瀬:「最終的に大手旅行会社に入社することになるのですが、大学で曲がりなりにも観光政策を学んできたわけで、まずはそれを活かせる業界だなと思ったのと、商社や物流というのは、結局ものを取り扱う業界なのかなと思ったので…。

私としては人と交わり、話をしながら仕事をするような、どちらかというと無形商材を扱う業界に進みたいと考えていました。入社した旅行会社は、そんな旅行業界のなかでも、自分に近い温度感というのか、バリバリのリーダーシップを発揮して周囲を牽引していくというよりも縁の下の力持ち的に周囲を支えていくような、人の良さが感じられました」

旅行会社に入社後のキャリアとして廣瀬さんが思い描いたのは、九州を拠点に修学旅行の添乗員として活躍する自らの姿だった。

廣瀬:「高校の修学旅行ではニュージーランドに行きました。それが私にとって初めての海外経験になるのですが、現地の人たちに英語で話しかけてレスポンスが返ってきたのが衝撃的で、それが自分の将来を見直すきっかけにもなりました。そんな貴重な経験を子供たちに対して提供できるサービスとして、修学旅行の添乗員の仕事を魅力的に捉えていたのだと思います」

インバウンドというワークキャリアとの出会い

ところが最初の配属は、まさかの訪日外国人旅行を取り扱うインバウンド事業の部署だった。九州から遠く離れた東京本社の勤務となったこともあり、当初は落ち込むこともあったというが、徐々に仕事にも慣れ、手応えを感じるようになっていく。

廣瀬:「自分の英語力を買われての配属だったと思いますし、実際に英語を使う機会も多く、自分の望んだキャリアの第一歩が踏み出せたという感覚がありました。仕事は大変でしたが、いま振り返っても、旅行会社での4年間は、私のその後のキャリアの土台となる貴重な時間だったと思っています」

廣瀬さんが担当したのは、日本を訪れる団体旅行客を受け入れるために、海外のエージェント(旅行会社)に働きかけるBtoBの営業活動だった。

廣瀬:「主に担当していたのは中近東エリアで、イスラエルやトルコなどの旅行会社に対する海外の法人営業に携わっていました。日本への旅行を企画する際には、『弊社に手配をご依頼ください!』というための関係構築から実際の旅行手配までを担当しました。現地に赴くのは年に2、3回程度で、多くの場合、お客様を連れて訪日される現地エージェントの担当者が、東京を訪れる際にお会いして関係性を築くというかたちでした。

当時、中近東エリアからの訪日旅行は、徐々に取扱高を伸ばしている段階で、新興マーケットという位置付けでしたが、自分なりに工夫しながら新規の市場開拓に精力的に取り組んでいました。ところが、入社2年目に、東日本大震災が発生し、たった一晩で億単位の売り上げが消滅してしまったんです。

しかし、マーケットの回復は意外にも早く、風評被害も比較的早く落ち着いたことから、徐々に問い合わせも増えていくようになります。この結果、2年目の成績で新人賞を、4年目の成績で社長賞を受賞することができました」

添乗員として佐渡島を案内する廣瀬さん

Uターン転職を、意識しはじめる

ワークキャリアの面では、順調なスタートを切った廣瀬さんだったが、入社3年目を過ぎた頃から、ふと「いつかは九州に帰らないといけないんだろうな」という想いがよぎることが多くなっていく。

廣瀬:「入社前は、九州で働くものとばかり思っていたので、配属が決まって、いざ東京での暮らしがはじまってみると、『長男の引力』じゃないですけど、いつまでも実家から離れて暮らすわけにはいかないと思うようになっていきました。

そして、帰るのなら早めに準備をしておかなければならないと、Uターン転職というものを強く意識するようになりました。もちろん全国規模の会社でしたから、九州への異動を打診することも可能だったはずです。ただ、そうなるとインバウンドという仕事からは離れてしまう。その頃には、インバウンドの仕事が好きになっていたので、キャリアを変えてみようかと…」

海外出張先にてクライアントと

九州で働くことを軸に、次の活躍の場を探しはじめた廣瀬さんのもとに、一通のメールが届く。転職サイトで見つけて応募した会社の社長からのメッセージだった。

廣瀬:「旅館やホテル向けのホームページ制作を行う会社で、インバウンド事業を立ち上げるので、その舵取りをしてもらえないかということでした。本社は名古屋にあるのですが、九州支店に勤務をしながら新規事業を手掛けることができる点に魅力を感じて、飛び込んでみることに…」

インバウンドのスペシャリストとして、期待されて入社したものの、廣瀬さんには、周囲が持てはやすほどインバウンド事業のすべてを知っているわけではないという自覚もあった。そして、一人で一切を取り仕切っていくという孤独感が募り、また、本社との距離感にも苛まれ、体調も崩しがちに。一年半後には、この会社を辞することになる。

廣瀬:「それまで経験してきた海外営業とは程遠く、事業を企画する仕事になりましたので、実際に英語を使う機会はほとんどありませんでした。そこで思ったのは、現場に戻りたいということ。ビジネスの最前線で、海外の方々と話をして、商談や交渉をまとめていく仕事がしたいと思うようになりました」

新たなライフステージへと踏み出す

廣瀬さんが、次のステージとして選んだのが、家具などのインテリア製品を自分たちで海外から仕入れ、それをオンラインで販売する福岡の会社だった。商品開発部に所属して、商品の企画と買い付けを主に担当することになる。

廣瀬:「私が担当していたのは、OEM開発というもので、自分たちでデザインをした絵をもとに、海外のメーカーに依頼して生産してもらうというものでした。

どんな製品が市場に受け入れられるかを精査し、新たな製品像を描き、見積もりを取り、サンプルをつくって、それを仕入れるというところまでを行っていました。ヨーロッパやアメリカで定期的に開催される展示会に顔を出し、中国や東南アジアにある工場に出向く機会も多く、二カ月に一度は、海外に出張していました」

バイヤーとしてインドに商品を買い付ける廣瀬さん

こうして福岡での生活も軌道に乗ってくると、プライベートの時間も自然と充実したものになっていく。大学時代に交際をはじめた女性は、岡山の会社に就職して、遠距離でのお付き合いとなっていたという。

廣瀬:「私が福岡に戻ってきて半年が過ぎた頃に、彼女も福岡に異動となりました。当初は、お互い仕事に集中したいということで、距離をおいた時期もありました。

そして、次第に仕事にも慣れて、落ち着いた時期というのが2017年の頃で、私がちょうど30歳の年でした。区切りの年齢かなと思いましたので、その年に結婚することになりました」

その後、長女が誕生したのが2019年。そして、奥様の産休・育休が明ける頃に、新型コロナウイルス感染症が大流行する。

廣瀬:「このタイミングで、会社でもリモートワークが認められるようになりました。妻も新たなフルタイムの仕事に就くことになりましたが、当時は、長女の保育園への送り迎えも二人で分担することができていました。この頃ですね、大分への移住を考えるようになったのは。

妻も私も同じ大分県の出身で、同じ家賃を払うのなら持ち家が欲しいなあと…。また、子供のケアなども考えると、両親に近いところで暮らすのがいいんじゃないかと話し合い、いつかは移住して家を建てようという話になっていました」

コロナ禍以前なら、そう簡単に田舎に引っ越そうという気にはならなかったかもしれないと、廣瀬さんは振り返る。それは、廣瀬さんが考えるキャリアには、相容れない面があったからだという。

廣瀬:「ライフキャリアとしては、妻と話していたように、田舎でのんびり暮らしたい、子育てをしたいという想いがありました。一方で、自分の仕事上のキャリアを考えたときには、海外とつながりながら仕事がしたい、英語を使いたいという想いがありました。

コロナ禍以前なら、それらは両立しないことでした。少なくとも私のなかでは、田舎に戻る=キャリアパスを捨てるというようなイメージがあって、決断することができませんでした。ただ、コロナ禍でリモートワークになって、あれっ?パソコン一つで働けるんじゃないか?という具体的な道筋が見えてきます。

加えて、私の父が大きな病気で倒れて、そのアシストが必要になったということもありました。妻と話して、そろそろ移住の段取りを進めようかというのが2020年の9月でした」

移住した大分県

この地域“にしか”ないものを、かたちにする

廣瀬さんのなかで移住を決断した頃には、すでに将来の独立・開業という道が見えていたという。会社に副業を認めてもらい、企業から依頼される通訳や翻訳の仕事を受けるようになったのも、プログラミングのスクールに通い、ホームページ制作のスキルも身につけたのもこの頃だった。

廣瀬:「というのも、移住を考えていることを会社に伝え、リモートワークを継続できないかと相談したときに、コロナ禍が明けたあとにリモートワークを続けるのは難しそうだなと会社の反応から感じましたので、独立に向けて動き出すことにしました。

土地を探して、大分県玖珠町に家を建てたのが2023年の4月。そこで改めて、会社としての意向を確認しました。コロナも落ち着いて会社も週5日の出勤に戻りつつあり、対応が難しいという回答だったので、退職を決意しました。

もちろん当初不安はありましたが、妻がフルタイムで働いてくれていることもあり、経済的な不安が少なかったことは後押しになりましたね。妻とも話し合い、まずはチャレンジしてみようということになりました。」

フリーランスとしての開業届に記した屋号は「nicika(ニシカ)」。通訳や翻訳、家具やインバウンドなどを経験してきている自分「にしか」できないもの、この地域「にしか」ないものをかたちにしていきたいという想いが、この屋号には込められている。

廣瀬:「現在の仕事は、まず一つが家具業界での経験を活かしたインテリア関連の商品開発ですね。さらに、翻訳とか通訳の仕事とホームページの制作。

もう一つがインバウンド関連で、全国通訳案内士として、九州を中心に通訳ガイド業務を行っています。この四つの軸で動いているのですが、なかでもインバウンド関連の仕事については、他の三つの軸と掛け合わせるかたちで、より強化していきたいと考えています」

観光ガイドの仕事をする廣瀬さん

廣瀬さんが、玖珠町に移住して痛感することは、日本の人口がどんどん減っていくなかで、特に地方ほど外貨を稼がなければならないということだ。この町だけで完結することを続けていても、それを買ってくれる人の規模は小さくなっていく。ならば、外から来る人たちにお金を落としてもらうことを、本気で考えるべきだ。それがインバウンドの仕事だという。

廣瀬:「着地型観光というのですが、そのエリアを起点とするツアーパッケージをつくって販売するということです。たとえば目的地となるエリアの方々が、自らの観光資源をもとに商品や体験型プログラムなどのコンテンツを創生し、それらをパッケージにして域外の人たちに販売する。それをいま、この町で本気になって取り組みたいと思っています。

人口を増やすことは無理だとしても、稼ぐ仕掛けをつくることで延命することならできる。日本人にとっても知名度が低い町なので、情報の発信は不可欠で、私一人では何もはじまりません。自治体も含めて、仲間を増やしていかなければと画策しているところです」

イングリッシュカフェのその先に

そんな課題感から、廣瀬さんが立ち上げた仕掛けの一つに、イングリッシュカフェがある。カフェを借りて「英会話を楽しむ会」を主催して、そこに集う人たちとの交流を増やし、そこに生まれたコミュニティをベースに、新たな取り組みにつなげていきたいという。

廣瀬:「このカフェに、玖珠町では英語を話す機会がないけれど、もっと話したい、勉強したいという方々に集まってもらって、町にはALT(Assistant Language Teacher:外国語指導助手)という外国語を教えるネイティブの先生たちがいるので、彼らにも声をかけて、カジュアルな会話を楽しむ会というのを月に一回程度、開催しています。

たとえば、この町をガイドしますとなったときに、ガイドできる要員が私だけでは意味がありません。英語で案内できる方が必要になります。そういう人材と出会う場になればと思っています。そして、外国人向けのツアーを企画するにあたっては、ALTのみなさんのようなネイティブの方々から、企画についてのフィードバックが得られることも期待しています。

現時点では、10人ほどの集まりに過ぎませんが、できることから着実に一歩ずつ進んでいけたらと思います」

イングリッシュカフェの風景

玖珠町は、廣瀬さんの奥様の実家の隣町で、奥様を介して廣瀬さんとつながったという方も少なくない。奥様のコミュニティと廣瀬さん自身が築いたコミュニティとが交わって、さらに広がりをみせていく。加えて、廣瀬家の外交官的役割を担う娘さんの存在も大きいという。

廣瀬:「妻はいま、地方創生のための事業を運営する会社に勤めていまして、妻が担当した玖珠町の観光協会の仕事を私が通訳ガイドとして手伝ったことで、この町に知り合いが増えることになりました。

イングリッシュカフェとして使わせていただいているカフェを運営する方もそうですし、Webのディレクターをされている方には、Webデザインの発注をいただきました。それと、娘が庭に出て、通りすがりの人たちに、大きな声で挨拶をするんです。

この地域には子供がいる若い人が少ないので、意外に目立つんですよね、あそこの子は可愛いねと。近くの農家のおばあさんたちが、採れたての野菜を持ってきてくれるようになりました。おかげで、早々に地域に溶け込むことができました」

廣瀬さんには、これまでの仕事上の関係からつながった人たちがいて、奥様経由でのつながった絆があり、新たな試みとしてのイングリッシュカフェから生まれるつながりも加えられる。そうした仲間を巻き込みながら、インバウンド集客に向けた活動は、まだ幕を開けたばかりだ。

庭に出る娘さん

イングリッシュカフェという一つの試みが、感度の高い人たちを呼び寄せ、着地型観光というインバウンド集客に向けた、この町の新たな可能性を拓いていく。課題は多く残されているものの、ワークとライフとが交差する、その狭間で、家族をはじめ周囲の人たちに支えられながら、玖珠町を照らし続けてほしい。玖珠町の人々のために、そして心強いパートナーである奥様と娘さんの明日のために。

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