【つむぐ人】多くの人たちと接して、それぞれの力を認め、受け入れながら、「ちょっかい出し」の精神で自分流の未来をつかみとる。
『つむぐ、キャリア』では、多様化する過剰な選択肢から選び続けていると、選択結果のあいだに矛盾が生じたり、相容れないものを選んでいたり、これらを新しい文脈で意味づけて、撚り合わせ、調和させることを「つむぐ」と表現しました。
そこで、「つむぐ、キャリア」を実践している方々を「つむぐ人」と称し、その方々にインタビューを行い、自らのライフキャリアとビジネスキャリアをどのようにつむいできたのかをお聞きします。また、今後各インタビューに共通して現れた要素などを専門家の先生方との対談とあわせ、「つむぐ、キャリア」という概念に必要な要素などを具体化できればと考えています。
つむぐ人 プロフィール
石田 保憲(いしだ やすのり)
1982年生まれ。北九州市立大学国際環境工学部を卒業後、食品メーカーに入社。広報企画、製品開発、営業の仕事を経験する。2007年8月に父親が経営する株式会社近代プラントに入社。水処理施設などの現場を経験しながら、九州大学ビジネススクールで学び、MBAを取得。2015年に共同代表に就任。2016年より、株式会社近代プラント 代表取締役。福岡県福岡市在住。
目次
困ったことがあれば、専門家に相談すればいい
石田さんは、父親が経営する株式会社近代プラントの御曹子として生まれ育った。幼い頃から、両親が働くこの会社に連れてこられることも多く、現在の執務室である社長室は、当時の石田さんの遊び場にもなった。高校進学時には、数学や物理が得意で歴史が苦手だったこともあり、理数系に進むが、小・中学校時代から興味があった心理学を学んでみたいとの思いが強くなる。
石田:「大学進学にあたって、周囲が期待していたのは、家業に関連のある土木や化学系に進むことでした。周囲の期待と自らの希望、それらを天秤にかけたわけではありませんが、前期日程では理系科目での受験でも心理系に進める大学を、後期日程では化学系を学べる大学を受験することになりました。結果、地元の北九州市立大学の国際環境工学部に進むことになりました」
大学では、プラント建設の設計や生産プロセスなどを学ぶ化学工学の研究室に所属する。しかし「それほど勉強ばかりをしていたわけではなかった」と本人が振り返るように、学内を盛り上げるような活動や学外での人的交流に力を注ぐ日々だったという。
石田:「国際環境工学部は、2001年に新設された学部で、キャンパスも小倉にあった本学とは異なり、片道で1時間半ほどかかるくらいの山を切り拓いたところにありました。サークルの勧誘にすら躊躇されるような疎外感を感じて、『本学のやつらに負けてはいられない』という思いが湧き上がってきました。
この学部を盛り上げようとサークルを新設するためのBBS(電子掲示板)を立ち上げたり、学部独自の学園祭を開催するために、近隣の大学で組織される大学祭実行委員会のようなところに出向いたりと、精力的に動きました。
それで目立ってしまったのか、いろんなプロジェクトにも声がかかるようになって、ゼミの教授から日本製鐵(当時の新日本製鐵)のタタラ製鉄を再現するプロジェクトに誘われたり、大学の職員から市営バスのイメージキャラクターの選考委員として呼ばれたり、環境教育関連のNPOの集まりを手伝ったりと、ジャンルの異なるいろんな大人たちとの出会いから、多くを学んだ時期でもありました。
大学の授業で他学科と共同で環境問題の研究発表をするなど、企業訪問といったフィールドワークが用意されていたことが、外に目が向くきっかけになった気がします」
このような出会いと経験から、石田さんが学んだことは、何もかもを自分で抱え込む必要はないということだった。
石田:「それぞれのフィールドには、その分野で知識や経験を積み上げてきた専門家がいるから、何か困ったことがあったら、そういう人たちに相談すればいい。だから、どんなことにも積極的にチャレンジしていこうというマインドが身についたと思います」
より多くのビジネスキャリアと、出会うために
就活の時期を迎えて、石田さんが誓ったのは、一度は、福岡を離れてみようということだった。
石田:「大学も自宅から通えるところだったので、自活することができていないという負い目を感じていました。鹿児島に環境教育のイベントで知り合った友人がいたので、1年休学して鹿児島でアルバイトをして生計を立てたいと親に相談したのですが反対されて、結局押し切れずその想いも叶えられずにいました。そのことが嫌な記憶として残っていたので、就職は必ず県外にと考えました」
福岡を離れて就職はするものの、やがては家業を継ぐことになる。それが何年先になるのかは、わからないけれど、家業では得られないような多くの経験をしておきたいという考えが石田さんにはあった。
石田:「うちの家系として、家業とか家族に対するこだわりが強いところがあって、やがては家業に貢献したいというメンタリティが自然と醸成されていたような気がします。ですから、家業の水処理に関連のある液体を扱うプラントのある会社に絞って、就職活動をしていました」
石田さんは、最終的に2社の食品メーカーからの内定を得ることになる。1社目の会社では、3年ごとのジョブ・ローテーションが決められている上場企業、2社目はより短期の異動スパンで、多くの部署を経験できる中堅企業。大いに悩んだ石田さんだったが、異動スパンの短い会社への入社を決めた。
石田:「5年後には、地元に戻るつもりでいましたので、3年ごとの異動では、自分が意図していない業務にしか就けない可能性もあると考えました。対して、異動の機会が多い方が、より多くの仕事を経験することになる。それが決め手でしたね」
あくまでも自分流に、キャリアを重ねていく
新卒で食品メーカーに入社したのは、2005年4月。最初の3カ月は、広報企画の部署で、お客様対応から製品パッケージのデザインまで、幅広い業務に携わった。4カ月目からは、奈良にある中央研究所で働くことになるが、製品開発を担当する部署だった。
石田:「工場でプラントに関わる仕事に就ければ、将来につながる知識や技術が得られるのではないかと期待していましたが、実際に担当したのは、果実酢の発酵のテストや試作品づくり、ポン酢や酢ドリンクの開発業務などでした。その後は、寿司酢もつくっていました。
繁忙期には、手伝いに入ることもあったので、工場勤務の人たちから安全管理の面などで参考になる話を聞くことができました。奈良には、1年3カ月在籍し、2年目の秋に東京の営業部署に異動となりました。
実は、翌年の正月に母が倒れまして、福岡に戻ってきてほしいといわれて…。自分のなかでは、7月に開催されるキャンペーンが終わるまでは戦力として頑張ろうと考えていましたから、会社には7月いっぱいで退職したいと伝えました」
株式会社近代プラントへの入社は、2007年の8月。入社当初は、まず水処理や汚泥処理、汚泥焼却といった工程を学ぶために、現場での業務に就き、夜勤も経験したという。
石田:「社長の息子が来たということで『どうぞ座っていてください』といった感じで、社員たちには、だいぶ気を使われましたが、こうした現場で働く人たちとのコミュニケーションについては、前職で社長が現場に顔を出してくれていたことが役に立ちました。
社員は気を使ってくれたりはあるものの、全く不満がないわけではないことはわかっていましたから、それをいかに掘り起こしていくかに気を付けていました。彼らと打ち解けるために、少人数で飲みに行ったり、未経験だったパチンコに一緒に行ったりと…」
近代プラントの主力事業は、下水処理施設の維持管理だ。福岡市から委託を受けて、福岡市の施設に社員が常駐し、運転管理や修理などの業務を行っている。社員の多くは、機械系や電気系の出身者が多いが、水処理の原理を理解しておくという意味では、化学の知識も必要になる。
石田:「私は、化学を専攻してきたので、どうやって水がきれいになるのかといった水処理の原理の話を社員に伝えるなど、化学への理解を深めてもらうような研修を行ってきました。パソコンが苦手で触ろうとしない人も多かったので、WordとExcelの講習会も開きました。
このような催しは社員一人ひとりの顔と名前を覚えることもできますし、この人はこんなタイプだなと、それぞれの個性や傾向をつかむことにも寄与しました。また、それまで福岡市からの発注業務の割合が多くなっていたのですが、他の自治体の入札にも参加するなど、将来に向けて事業の幅を広げるような取り組みもはじめています」
ちょっかい出しの精神で、ネットワークを広げる
石田さんは、福岡に戻ったタイミングで、母校を訪れている。
石田:「当時、いまの若者は我慢がなくて、すぐに辞めてしまうといったことが話題になっていて、卒業生がすぐに離職するというのは悪評がつきかねないと思ったので、そのお詫びというか、嫌で辞めたわけじゃなくて、こういう理由があって、これからはこうしていきますという話をするために訪ねました。
このときに、経済学の先生にも挨拶に行き、『これからは家業を継いで経営者を目指すが、経営について何もわからない』という話をすると、九州大学のビジネススクール(QBS)を紹介されました」
これを契機に、QBSを受験して通学することに。平日の昼間は仕事をして、夜は学校で講義を受ける。さらに土曜日は朝から講義に出る。そんな日々を2年間、続けることになった。
石田:「この経験は大きかったですね。経営者だけじゃなく、大手メーカーや銀行、電力会社、鉄道会社などのミドル層が通っていましたし、医者や薬剤師、新聞記者などもいました。そのような多様な人たちが一つのテーマについて議論しあうと、さまざまな考え方に触れられますし、そこから学ぶことも多かったのです。
この業界の人たちは、こんなことを問題視するのかという気づきも得られて、ビジネスの多様性というものを実感できました。またQBSの同期とは、いまでも仲良くさせてもらっていていますから、その影響は多大でしたね」
この頃、石田さんは、関西のビジネススクールとの勉強会を自ら企画し、開催している。
石田:「QBSは、夜間の学校なのですが、どちらかというとフルタイムの学校のほうが、学ぶ環境としては充実しているんですね。だから知見を広げるために、関西のビジネススクールの人たちに福岡まで来てもらって、一緒にディスカッションするということもありました。
昔から、人に関わることが好きで、ちょっかいを出してる人間でしたが、そうやって刺激を求めてネットワークを広げようとしていたのかもしれません」
自ら持てるものだけに、とらわれないということ
石田さんが、ご結婚されたのは2010年のこと。大学時代に、大学祭の宣伝をみんなでやろうというイベントがあって、奥様とはそこで知り合ったという。そんな昔の仲間で集まることになり、福岡で再会を果たし、お付き合いがはじまったのだ。第1子が生まれたのが2011年、2013年には2人目が生まれている。
石田:「私の父が1937年生まれで、私が15歳のときに父はもう還暦でした。中高生から見たら、かなりの年齢ですから、親が元気でいるかどうかで自分のライフプランにも大きな影響があるわけです。
当時はそれが嫌だった。だから自分の子供には、僕の寿命を気にしながら人生設計をしてほしくないと思って、30までに子供を2人は欲しいなと。厳密には、2人目が生まれたのは、31のときでしたけれど」
その後、2015年には、お父様に癌の転移が見つかり、治療に専念してもらうために、近代プラントの共同代表に就任。翌年の7月にはお父様が他界され、代表取締役として近代プラントの経営に手腕を発揮することになる。
石田:「父が他界したあと、アメリカのサンフランシスコに視察に行く機会がありました。これもQBSの同期からの誘いに乗って参加したのですが、こんなビジネスモデルが成立したら面白いねというアイデアを、投資家の前でプレゼンしてきました。
それが形になることはありませんでしたが、ここで学んだのは、自分が持てる資金だけにとらわれずにビジネスチャンスを広げることができるということでした。投資家とのつながりもそうですが、他のビジネスを推進する人たちとつながることによっても、互いに新たな可能性を広げられる道があるのではないかと考えるようになりました」
そんな新たな可能性につながる情報が、鹿児島で得られることになる。
石田:「妻のご両親は、福岡でそれぞれ働いていましたから、彼女は生まれも育ちも福岡なんです。ただ、ご両親ともに鹿児島の出身ということで、正月には鹿児島に帰省して過ごすことを続けてきたようです。
大学時代の縁もあって、私自身も鹿児島には毎年のように出かけていました。そんな折に出会ったのが、電気工事を事業としている会社さんでした。福岡でも事業を展開しているけれど、採用がうまくいってないというんですね。
当社にも電気工事士はいるし、技術的なつながりがある。ならば業務提携して一緒にやったら、もっとうまくいくんじゃないかと、いま、うちの社員を出向させて業務にあたってもらっています」
家電リサイクル法が施行され、廃棄エアコンの適正処理が必要になった。提携先の電気工事会社にとっては、温室効果ガスを排出しない適正な処分が行えることが、取引先に対するプレゼンスを大いに高めることになる。
石田:「近代プラントでは、すでに産業廃棄物の収集運搬に取り組んでいましたから、その会社と一緒に動くことで、新たなビジネス展開が可能になりました。
これはほんの一例に過ぎませんが、業種の異なる会社が協働することによって、両社にとって新たな可能性が生み出されることになる。そのことを体現する取り組みであったと思っています」
自らの殻にこもらない、新たな企業文化を
石田さんは、2023年の3月に大型免許を取得した。大型車両を自ら運転し、整備工場までの運搬をサポートすることもあるという。
石田:「社員には自分の専門分野だったり経験だけに固執することなく、それ以外のことにも積極的にチャレンジしたり、自分とは異なる部署の人とも協力しあって、業務を遂行するというような社風というのかな、それを近代プラントの文化として根付かせたいと思っています。そこでまず社長である自分自身が、みんなが困っていれば車を動かせるようになろうと、免許を取りました」
この文化の定着度合いを石田さんに聞くと「6合目というところ」との回答だった。
石田:「港湾や河川などの底面をさらって、土砂などを取り去る土木工事を浚渫(しゅんせつ)といいます。このような作業は、下水処理場や浄水場でも必要になります。そういう仕事を入札で取ってきたときには、それぞれの現場から人を借りて、何日間か作業にあたってもらうのですが、そんなときにもみんなが応じてくれるようになりました。
以前なら『あいつにやらせておけ、俺は行かない』という人も少なからず見受けられたのですが、役職者も含め積極的に参加してくれるようになりました。いやもう感謝です。感謝しかありませんね」
石田さんが考える、いま一番の経営課題は「人の採用」だという。
石田:「コロナ禍でロックダウンしたからといって、トイレの水は流れ続けますから、そういう意味では安定しているわけです。反面、大きく跳ね上がることもありませんし、その存在意義や社会への貢献を認めてくださる方も決して多くはありません。
社外の方から正月休みはいつまでか聞かれたときに、冗談めかしてこう答えているんです。『正月三が日くらいは社員にも休んでほしいので、みなさん、三日間だけでも、トイレとお風呂と洗い物を我慢していただけませんか…』とね。
そこでようやく、毎日必要なものだと、気づいてもらえるんですね。社員には、自分のプライベートを充実させてこその人生だと思ってほしいし、地元の博多湾は水の入れ替わりが少なく赤潮も出やすいのですが、社員が子供たちを連れて海水浴に行ったときなどに、自分たちがこの海を環境を守っているのだと誇りに思ってほしい。
そのためにもこの会社が、地域における存在感を高め続けられるように、成長させていかなければならないと考えています」
社員のみなさまが、それぞれご自身のライフキャリアの充実を志向しながら、環境保全につながる仕事への使命感を持ち続け、誇りを持って生きていけるよう、ビジネスとライフの両面でのキャリアを支援していきたいと石田さんはいう。その結果として、2人のお子さんがいつか一緒に仕事をしたいと思えるような、家庭とは異なる「ホーム」になればと話してくれた。
家業とは、全く異なる食品メーカーでの業務経験、多彩なキャリアを有するQBSでの同期との出会いやその後の交流、奥様とのご結婚を契機に開かれた業務提携への道など、多くの紆余曲折を経ながら、その時々の選択を調和させ、つむいできたものが石田さんの判断や行動を支えている。そして今後も、石田さん特有の「ちょっかい出し」の精神によって、さらに大きな可能性が開けていくことを期待したい。