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【つむぐ人】その時々の変化を楽しみ、乗り越えながら、ともに過ごす人たちの、笑顔をつむいでいく。

キャリアリサーチLab編集部
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キャリアリサーチLab編集部

『つむぐ、キャリア』では、多様化する過剰な選択肢から選び続けていると、選択結果のあいだに矛盾が生じたり、相容れないものを選んでいたり、これらを新しい文脈で意味づけて、撚り合わせ、調和させることを「つむぐ」と表現しました。

そこで、「つむぐ、キャリア」を実践している方々を「つむぐ人」と称し、その方々にインタビューを行い、自らのライフキャリアとビジネスキャリアをどのようにつむいできたのかをお聞きします。また、今後各インタビューに共通して現れた要素などを専門家の先生方との対談とあわせ、「つむぐ、キャリア」という概念に必要な要素などを具体化できればと考えています。

今回のつむぐ人、三熊 新治(みくま しんじ)さん

<つむぐ人プロフィール>
三熊 新治(みくま しんじ)
1969年生まれ。工業高校を卒業後、塗工装置のメーカーに就職。カセットテープのメーカー向けに、製品の性能をテストする試作機の設計を担当。その後、運輸業に転職し、ドライバーとして配送業務を経験する。21歳で個人事業主として独立し、友人たちと共同で配送事業を立ち上げ、24歳のときには代表として有限会社システムアート藤沢を設立。この会社を退いた後に、江ノ島電鉄に入社。バスの運転士として8年半の勤務後、総合職として運行管理、助役、副所長、所長などを歴任。現在は、事業部不動産担当として、自社保有ビルの修繕等に携わりながら、ダブルワークで介護施設での送迎業務も担う。神奈川県茅ヶ崎市在住。

精密機械の設計から、トラックの運転手へ

高校を卒業後に、三熊さんが入社したのは塗工装置のメーカーである。当時は、カセットテープ全盛の時代で、三熊さんが担当したのは、カセットに収納される磁気テープの性能をテストするための試作機を設計する仕事だった。

三熊:「友人が就職を決めた会社に、まだ空きがあると聞いて応募しました。その結果、採用となり、入社後は設計を担当することになります。高校時代には製図が好きで、コンクールで優秀賞をいただいたこともあったのですが、設計の現場では、与えられた仕事をこなすのがやっとという状態でしたね。

技術者として認められるためには、お客様とのコミュニケーションも含め、まだまだ多くのことを学ぶ必要があり、社会の厳しさというものを思い知らされる日々が続きました」

入社して、1年半が過ぎた頃に、三熊さんに、最初の転機が訪れる。

三熊:「勤務先は、海老名市の門沢橋というところにあったのですが、その近くに友人が勤務する運送会社があったんです。彼が運転するトラックが、私が勤める会社の前を通るときに、私を見つけると、必ずクラクションを鳴らして、楽しそうに手を振って走り去っていくんですね。それを見ながら、面白そうな仕事だなと。

トラックの業界のことは、まったく分からなかったのですが、その会社は、海老名のあたりでは、まあまあ大きな会社だと知り、結局、その会社に転職することになりました」

転職先は、運輸業を営む会社。そこで初めて運転したトラックは2トン車で、コンビニエンスストアへの配送が中心だった。その後、少しずつ大きなトラックに乗り換えるようになり、配送先も、酒造会社などへと変わっていく。

三熊:「仕事中は、自分一人の世界だったので、ある意味、気は楽なんですね。つねに誰かがいて、気を使って話をするっていう場面はあまりなかったので…。朝6時半ぐらいには出勤して、夜は20時頃まで仕事をしていました。

その頃は、転職してトラックの運転手になる人が多かったんですよ。そんなわけで、徐々に知っている友だちや、そのまた友だちとかが、同じ会社に入ってきて。そんな仲間、5、6人で、夜も集まって、楽しく過ごしていました。日曜日が休みだったので。そんな仲間たちと、50ccのバイクを4輪車に乗せて、大井松田にあるサーキット場に行って、レースをしたり、大会に出たりしていました」

仲間たちとレースを楽しむ三熊さん
仲間たちとレースを楽しむ三熊さん

24歳にして、トラック輸送の会社を立ち上げる

こうしてトラックのドライバーとして、配送業務に携わるなか、配送先で出会った別会社のドライバーから、一緒にやらないかと誘いを受ける。彼は、これから独立して、個人事業主として運送事業を始めるのだという。

三熊:「その話を聞いて、自分も独立したいと思っていると伝えました。その上で、そのドライバーが集めた仲間たちのグループに所属して、仕事をすることになりました。しばらくは、そのグループで働きながら、自分たちのグループをつくるための準備を始めたのです。

前職の運送会社に集まった同級生たちを誘って、一緒にやろうと。はじめは個人事業主としてスタートし、その後、有限会社を設立することになります。24歳のときでした。自ら代表を務め、事務所を借りて、トラックの車庫も借りて、資本金は300万円からのスタートでした」

会社名は、有限会社システムアート藤沢。自分たちの技術や想いを運ぶ、それをシステム化して仕事をしていこうと、名づけられたという。

三熊:「まあ、みんな若いので、東京に自社ビルを建てようじゃないかと、それぐらいの勢いがありました。まあ、それぐらい稼ぐこともできていましたし、利益も出していましたから、順調なスタートでした」

ところが、もう一人の出資者との間で、会社運営に関する意見がぶつかるようになっていく。

三熊:「私には、5人でスタートさせた運送事業を、しっかりとした土台として育て上げることを最優先としたいという想いがありました。それに対して友人は、早くから多角経営をしたいという主張を曲げることはありませんでした。現状の仕事や待遇面に関する不満であれば、改善の余地を探ることができたでしょうが、今後の会社運営についての衝突ですから、どちらかが妥協するか、考えを変えない限り、生じてしまった溝を埋めることはできません。

苦渋の決断ではありましたが、私自身が身を引くことにしました。せっかくつくった会社なので、意見のぶつかりによって会社がダメになってしまうくらいなら、自分が身を引こうと思うくらい会社を残したいという気持ちが強かったのです」

トラックからバスに乗り換えて、再スタート

自ら決断して身を引くことになったとはいえ、自分が立ち上げた会社を手放すというは、並大抵のことではなく、三熊さんは、大きな精神的なダメージを負うことになる。

三熊:「それから3カ月は、仕事も何も、手につかなかったですね。あまりにもショックが大きくて…。退職金とかもあったので、その退職金で繋いでいたというかたちですね」

そんなある日、三熊さんは、仕事中に東京で見かけた、二階建てバスのことを思い出す。

三熊:「当時、トラックを走らせながら、たまたま、二階建てバスに出会ったというだけで、その時点では、バスの仕事というのをとくに意識していたわけではないんです。でも、「カッコいいな」「こんなバスがあるのか」という印象は強く残りました。

その後、仕事を辞めて、そろそろ仕事をしなくてはいけないというときに、強い印象を持っていたから思い出したんでしょうね。よし、二種免許を取りに行こうと…」

それまでに、大型車を運転する一種免許は、取得していたという三熊さん。お客様を乗せて、バスを走らせるためには、二種免許が必要になる。そこで、二俣川免許センターの試験場での技能試験にチャレンジすることになる。

三熊:「いわゆる一発試験というもので、そこで初めてバスに乗ることになるんですが、トラックを運転してきていたので、運転席に座ったときには、まあいけるかなと感じました。その一回で合格しました」

二種免許を取得後は、バス会社を受験して、バスの運転士になることを目指す。最初に受けたのは、もちろん二階建てバスを運行している会社だった。

三熊:「ただ、面接で長野の路線バスを最初にやってもらえませんか?と言われて、長野は行ったこともないし、僕は2階建てバスに乗りたいと、高速バスをやりたいんですと言いました。その結果、不採用でした。最終的に、合格したのが江ノ島電鉄で、25歳のときでした」

誰にも負けることのないバスの運転士を目指して

江ノ島電鉄で、バスの運転士としての新たなキャリアをスタートさせた三熊さん。その後、ライフキャリアにも変化があった。奥さまとの結婚だ。

三熊:「26歳のときですね。前の会社を任せることになった、もう一人の出資者というのが、早くに結婚していまして、彼の奥さんの紹介で出会ったのが、妻でした。

同い年で、最初から結婚を意識して逢いましたから、結婚が決まるまでに、そう時間はかかりませんでした。結婚後は、妻の実家のある茅ヶ崎に移りました。妻は保育士として働いていて、寒川にある幼稚園に通っていました」

その後、二人のお子さんにも恵まれて、四人家族となる。子育てにおいて、三熊さんが務めることになったのは、主に「叱る係」だったという。

三熊:「子供たちに、常々、私が言ってきたのは、妻を一番に守るということでした。だからお母さんをいじめるようなこと、悪口を言うようなことは許さないよと話してきました。躾という面では、かなり厳しい父親であったと思います」

そんな厳しい躾の甲斐もあって、二人の息子さんたちは、大きく成長し、長男は就職して一人暮らしを始め、次男はいま自宅から大学に通っているという。一方、バスの運転士としても、三熊さんは自らに厳しく、仕事上の責任を全うすることを課してきたという。

三熊:「人を乗せて、バスを走らせる仕事に初めて就いたわけで、お客様を安全に、目的地になるべく時間通りにお連れするということを、大切にしてきました。そのための技術を、どう磨いていくかということをつねに意識して、ハンドルを握っていました。

自分の技術で、仕事をするということにやりがいを感じながら、バスを走らせていたように思います。ブレーキ操作だったり、ハンドル操作だったり、アナウンスだったり、そういうところに気を配って仕事をすることが、楽しくもありました。

たとえば、お客様がバスで立つことになるじゃないですか。立たれたときに吊り革などに捕まると思うんですが、発進時とか止まるときに、揺れないように運転しようとか、シフト操作で吊革がギシギシという音をさせないような、スムーズな走りをしようとか。制限速度になったら一定速度で走り、停止するときにもウインカーを早めに出して、後続車に意思表示をして、安全に走らせる工夫を重ねました。

江ノ電には、バスの運転士がおそらく、500人ぐらいはいたと思うのですが、その500人のなかの一番になるんだっていうことを、つねに意識して技術を磨こうとしていました。そうして運転士を無事故で8年半務めて、ある程度、技術を極めることができたかなと思えたので、次のステップに行こうかなと、試験を受け始めることになります」

運行管理から、所長へと駆け上がるキャリア

三熊さんが「受け始めた」というのは、総合職となるための昇格試験。江ノ電バスでは、路線バスの運転士として入社後、プロフェッショナルとして定年まで運転士を全うする人もいれば、営業所や本社にて運行管理などの業務を経験して、やがて管理職として働くようになる人もいる。三熊さんは、8年半、運転士を経験した後に昇格試験を受け、運行管理の仕事に就くことになった。

三熊:「33歳の時ですね。一生、運転していても良かったんですけれど、周りからの推薦もあったのと営業所内の事務職の方とコミュニケーションを取る機会もあり、そういう働き方もあるんだなという発見もあって、受けてみることに…。

運行管理の仕事は、あらかじめ組まれたダイヤに穴をあけないように、運転士が病欠で休むようなときにはシフトの調整をして、また、渋滞などで車両が戻ってこないようなときには、車両の入れ替えをして、ダイヤを埋めていく仕事です。3箇所の営業所があるのですが、最初に配属されたのが横浜営業所で、次に配属となったが鎌倉営業所でした。

その後、本社に異動となって、事故担当として、保険会社とのやり取りや営業所への聞き取り、会議資料の作成などの業務も経験しました」

その後、営業所での助役として、副所長として、さらには所長に昇格して、営業所全体をマネジメントする役割も担う。この間、本社のCS担当としての業務もこなした。こうして、江ノ島電鉄に入社後の26年間を、ずっとバス部門で過ごしてきた三熊さんだったが、初めての別部門である不動産関連部署に異動することになった。三熊さんが、52歳のときのことだ。

三熊:「私のなかでは、順調にキャリアを積んできたという想いがありました。このまま定年までバス部門にいるのかなとは思っていましたが、なぜかまったく畑違いの不動産部門への異動することになり、正直、戸惑いもありました」

所長時代に表彰を受ける三熊さん
所長時代に表彰を受ける三熊さん

事業部不動産担当としての仕事は、江ノ島電鉄が保有する賃貸物件の管理業務だ。江ノ電には、自社が保有し運営する5棟のビルがあり、そのうちもっとも規模が大きいのが藤沢駅前の江ノ電第1ビル。このビルは現在「ODAKYU湘南GATE」として営業している。さらに、江ノ電藤沢駅のホームがビル内を通る江ノ電第2ビルなどの修繕など、自社ビルのハード面の管理を担っている。

三熊:「まあ、いまでも慣れてはいませんが、なんとなく流れだけは、理解できたという感じですかね。ビルの空調だったり、電気設備や配管など、ハード面の更新や修繕について計画し、実施していくのが主な業務になります」

笑顔をバトンタッチするという想いを財産に

三熊さんは現在、不動産担当としての業務に加えて、会社にダブルワークを認めてもらって、介護施設での送迎の仕事をしているという。

三熊:「そもそも、介護関連の仕事に関心を持つようになったのは、江ノ電の先輩が、将来は介護タクシーをやりたいと言っていたのを記憶していて、介護タクシーって何だろうと思い、自分なりに調べてみたんですね。

もともと自分を必要としてくれるところがあれば、どこででも力を発揮したいと考えていましたし、自ら事業を立ち上げたという経験もありましたから、やがて60歳になって定年を迎えたときに、昔のように自分で仕事をしてもいいのかなという考えもあって、介護タクシーに興味を持つようになったというわけです」

将来的に、介護タクシーや民間救急の仕事に就くためには、介護職員初任者研修の資格が必要になる。三熊さんは、毎週土曜日に介護施設に通い、送迎の仕事をしながら、介護の現場で働く人たちの姿を見て、将来の仕事のイメージを膨らませるのと同時に、毎週日曜日には介護の資格取得のためのスクールにも通い始めた。

三熊:「不動産の仕事は、ビルが相手の仕事で、時間的には余裕もありましたから、ダブルワークをはじめて将来に備えたいと思いました。誰かの役に立つようなことをしたい、必要とされているところで頑張りたいという想いもありました。

加えて、あの時、あれをやっておけば良かったとか、あの時どうして行動しなかったのかと、後悔したくないという気持ちもありました。この先、自分が元気で動けるのは、そんなに時間があるわけではありません。どうせ後悔するのなら、思ったことをやって後悔をしようと、そういう想いが強くなってきました。

60歳という区切りの歳を迎えたときに、勇気を持って決断できるように備えておくことで、介護タクシーとか民間救急の仕事など、自分が役に立てるような場所があるのなら、それにチャレンジしたいと思っています」

介護の世界に挑戦する三熊さん
介護の世界に挑戦する三熊さん

三熊さんは、このダブルワークをひとつの修行と捉えていて、この先、自分が独立して続けられる仕事なのかどうかを見極めているところだという。

三熊:「相手にするのが、お年寄りばかりなので、認知能力とか歩行能力とか、かなり衰えている方々に対して、自分がどう接するべきか、どう話しかけたらいいのか、何がベストなのかを勉強しなければならないと思っています。

人の尊厳といったところを大切にしなければならないし、そこに自分がどうアプローチできるかということもあります。忍耐力が求められる仕事で、人間性も磨かれる仕事なんだなと感じています」

どうせ後悔するのなら、思ったことをやって後悔をしようという三熊さんの想いは、仕事ばかりではなく、プライベートの面でも、大いに発揮されているようだ。

三熊:「2022年の10月に、自動二輪の大型免許を取得して、1300ccのバイクを購入し、会社の先輩や後輩たちと、1泊2日のツーリングにも出かけています。

それと、いま勤めている本社のすぐ近くに社有地があって、その社有地の除草作業を行う代わりに、畑として使わせてもらっています。すぐ目の前にある保育園の園長さんに、お芋掘りをやりませんかと声をかけたら、是非お願いしますという話になって、園児たちにお芋掘りをしてもらいました。すべて自分がやりたくて始めたことですが、それによって誰かが楽しんでくれれば、笑顔になってくれればいいのかなと考えています。

人に迷惑がかからずに、人の役に立つのなら、少しでも貢献をしたいという想いがあります。自分がやっていることで、みんなが喜んでくれる。そんな笑顔のバトンタッチができればいいなと思うのです。介護タクシーや民間救急の仕事も基本的には、そういう想いを持って取り組んでいきたいと考えています」

会社の先輩や後輩とツーリングを楽しむ三熊さん
会社の先輩や後輩とツーリングを楽しむ三熊さん

最後に、今後、奥さまと一緒にしたいことを聞くと、ワンボックスを一台買って、クルマで寝泊りしながら、全国の道の駅を旅することだという。「妻がいないと生きていけないので、これからも仲良くしていきたい」という言葉が、印象的だった。

保育園の園児と芋ほりを楽しむ三熊さん
保育園の園児と芋ほりを楽しむ三熊さん

自分がやっていることが、少しでもみんなの笑顔につながればいいと、三熊さんは言う。自分のなかに溢れるくらいの情熱を持ちながら、つねに相手の気持ちを汲み入れて行動しようとする。ときには後悔することもあったというが、三熊さんの自分軸というものがブレることはなかった。その時々の変化を楽しみ、あるいは乗り越えながら、あくまでも自分らしく、家族や周囲の人たちの笑顔をつむいでいく生き方が、とても素敵だなと感じた。

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