翻訳を通して磨かれる表現力~絵本の力について考える(2)~
—駒澤大学・内藤寿子氏
短所の伝え方に悩む大学生
新型コロナウイルス感染症の拡大は、大学生の就職活動に大きな影響を与えた。オンライン面接における間の取り方など、非対面型選考への対策は不可欠となり、カメラ映りやライティングといった新しい悩みを耳にする機会も増えている。
ただ、社会状況に連動したさまざまな変化があるとはいえ、実際に学生から寄せられる相談の多くは自己分析に関わる内容だ。それは以前から変わりない。特に、「自分の短所をどのように表現したらよいのか困っている」といった悩みは定番だといえる。
たしかに長所であれば、「責任感」といったオーソドックスな言葉を選んだとしても、それに自身の体験を結びつけて説明し、唯一無二の個性を表現することも可能である。また、友人からの評価や企業が大学生に求める力などの情報は、長所をまとめるためのヒントとして活用できるだろう。
一方、短所の場合は、考えはじめた瞬間から気持ちが落ち込んでいく。これまでおかしてきた数々の失敗も思い浮かんでくる。エントリーシートに入力はしたものの、「こんな短所だらけの人間を企業が求めているはずがない…」といった不安に苛まれてしまうこともあるだろう。自分自身が認識している短所を見つめ直す作業には、いつでも苦痛が伴う。就職活動の環境がどのように変化しようとも、短所を書くことは就活生が抱く普遍的な悩みなのである。
〈すぎる〉という日本語表現
短所の伝え方をめぐって行き詰まりを感じている大学生に対して、〈すぎる〉という日本語表現を紹介することがある。具体的にいえば、長所に〈すぎる〉を加えて、自分自身の経験を振り返ってみるように問いかけるのだ。
短所を見つめ直して落ち込んでいるのであれば、長所をあえて短所にしてしまえばいい。周囲から「責任感がある」と評価されているとはいえ、「責任感がありすぎる」がゆえに失敗した経験があるはずだ。「長所がときに短所になる」などの形で視点の転換をすれば、短所から自分の独自性について考えられるのではないか?社会人にとって必要なものは、「責任感がある」と「責任感がありすぎる」を柔軟に使い分ける表現力や、長所から短所を導き出す発想力なのではないか?
ほとんどの学生は、〈すぎる〉という日本語表現を薦めると、はじめは不思議そうな表情をする。しかし、上記のように問いかけを重ねると、この簡単な言葉が、自らの思考や経験を言語化するための手助けになることに気が付いていく。〈すぎる〉という日本語表現は、悩める就活生にとって有効な処方箋なのである。
少し比喩的に述べてみたい。言葉とは一種の絵の具である。絵の具の組み合わせにより、多種多様な意味のグラデーションを描き出すことが可能だ。「責任感」はプラスの意味を持つ単色の言葉だが、それに〈あふれる〉を加えれば「責任感にあふれた言動」のようにプラスの色合いをさらに深められる。一方、〈あふれる〉ではなく、その類語の〈すぎる〉と組み合わせると、「責任感がありすぎて、自分ひとりで抱え込んでしまった」となり、プラスとマイナスの両方の意味を帯びたグラデーションが生まれる。
〈あふれる〉も〈すぎる〉も日常的な言葉であり、特別なものではない。けれども、実はこのような言葉こそが、自己分析に必要な表現力や、他者との関わりの基礎となるコミュニケーション能力を磨くための重要なツールになる。では、日常的な存在である絵本の中の言葉は、わたくしたちにどのような気付きを与えてくれるのか。
本コラムの第一回では、絵本の視覚的要素に焦点を当て、それが〈他者の眼になって考える経験〉を読者にもたらすことを紹介した。今回は言語表現に注目し、絵本が持つ力を照らし出してみたい。特に、翻訳を窓口に日本語について考える行為は、大人にとって、自らの第一言語(母語)や認識を捉え直す契機となりうる。以下、この点について、具体的にお伝えしていこう。
タイトルをいかに翻訳するか?
英文学者・夏目金之助は、『吾輩は猫である』(雑誌『ホトトギス』連載、1905~1906)の成功により、小説家・夏目漱石としての人生を歩みはじめることになる。猫の眼を借りて人間社会を描いたこの作品は、「吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝て居て勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと」といった語り口の面白さはもちろんのこと、明治期の日本を記録した資料としても一級の価値を持つ。
では、この作品を英語に翻訳する場合、タイトルをどのように訳せばよいのだろうか。いうまでもなく、「猫である」の英訳は「be動詞 + a cat」だ。残るのは、「吾輩」をいかに訳すのかという問題だが、これも『吾輩は猫である』の特徴―猫の一人称で書かれた物語―をふまえれば、「吾輩=I」だと考えることができる。つまり、『吾輩は猫である』というタイトルの英訳は“I am a cat”となる。
各種の英語版でも採用されているタイトル“I am a cat”。しかし、個人的な意見を述べれば、この英訳に対しては、どこか違和感をおぼえてしまう。たしかに単語の意味から考えれば、「吾輩は猫である=I am a cat」は誤訳ではない。が、あらためて「吾輩」という日本語表現を使う人物をイメージしてみてほしい。おそらく、2023年を生きる大学生ではなく、たとえば夏目漱石のような知識人、あるいはプライドや自信を過剰に持っている厳めしい風貌の持ち主が思い浮かぶはずだ。果たして「I am a cat」という英語表現に、このような人物像を喚起する力があるのだろうか。
猫を主人公にした物語を書くにあたり、『私は猫です』『あたし、ネコちゃんなの』『オレ、ねこ』といったタイトルを付けることも可能である。だが、夏目漱石は『吾輩は猫である』を選択した。その理由の1つは、名前もまだない幼い猫が、「吾輩」という不釣り合いな一人称を使い、鋭い社会批評を展開する…そのようなギャップにより生じるユーモアの効果を重視したからだと思われる。
ピアニストのグレン・グールドをはじめ、夏目漱石が書いた本の愛読者は、世界中に広がっている。漱石作品は、日本とは異なる文化圏の読者の心をつかむ普遍性を有している。けれども一方で、『吾輩は猫である』というタイトルの魅力は、実は、他の言語には翻訳不可能なのである。このような意味において、漱石作品の面白さは、日本語で読まなければ味わうことができないものでもあるといえよう。
「吾輩は猫である」「私は猫です」「あたし、ネコちゃんなの」「オレ、ねこ」はすべて、「I am a cat」という同一の英訳に置き換えられる。しかし、あらためて考えてみれば分かるように、これらの日本語表現が有する意味のグラデーションはそれぞれ異なる。1つの色には収斂されえない豊かさを持っているのだ。自らの日本語表現力と向き合うための第一歩として、まずは『吾輩は猫である』というタイトルを鏡に、自分を表現する日本語の多義性に立ち止まっていただきたい。
第一回コラムでは「失敗」を描いた「絵=視覚的要素」の効果について取り上げたが、「絵=視覚的要素」の役割はメディアによって異なる。『100万回生きたねこ』(講談社 1977年)をはじめ、多くの読者を魅了する絵本を生み出した佐野洋子(1938~2010)は、上記のような表紙絵を描いている。これは、『吾輩は猫である』というタイトルを「絵=視覚的要素」で表現した、佐野による一種の翻訳である。わたくしの見解を記せば、佐野洋子が描いた小さな耳には主人公のあどけなさが、鋭い眼差しには批評精神が訳されている。「吾輩」の特徴を捉えたなかなかの名訳だと思われるのだが、いかがだろうか。
多様性と出会う場としての翻訳絵本
日本語で著された物語の英訳は、わたくしたちに日本語で読むという行為の意義や日本語の独自性を再発見させてくれる。またときに翻訳絵本は、実感を伴って多様性について考える場ともなる。
いま一度、〈すぎる〉という日本語表現に立ち戻ってみよう。1975年にアメリカで出版された絵本“WHAT CAN A HIPPOPOTAMUS BE?”(Word by Mike Thaler, Pictures by Robert Grossman)は、自分の適職を探すカバの物語である。消防士やピアニストから手品師まで、主人公はさまざまな職業に挑戦するが、すべて失敗に終わってしまう。「体が大きい」「力が強い」といった長所が、「体が大きすぎる」「力が強すぎる」という形でしか発揮できないからだ。
原作では、失敗を描いた視覚的要素と共に「No」という単語が大きく記されており、それが13回も繰り返される。しかし意外にも、絵本の読後感は明るく和やかなものだ。その理由は、未来への希望が感じられる最終ページ―虹色のハンモックに身を置く主人公の姿と「and take it easy」のフレーズにあるといえよう。
この絵本の日本における翻訳出版は1980年。翻訳を手掛けたのは、戦後日本の児童文学を牽引した今江祥智(1932~2015)である。今江は、「思慮深げにノーンビリした」(今江の言葉、「日本語・英語併記版」より)主人公の表情をはじめとする視覚的要素を読み解き、それに作品のテーマを重ね合わせて、下記のようなタイトルを創出した。
今江祥智は、翻訳を通してこの絵本のメッセージ性を明確に打ち出すために、あえて原作の最後に置かれた「take it easy」というキーフレーズをもとに、日本語版のタイトルを考えた。さらにそれだけではなく、大阪出身の今江にとっては第一言語(母語)である言葉での翻訳を選択し、翻訳絵本『ぼちぼちいこか』を誕生させたのであった。
原作のタイトル“WHAT CAN A HIPPOPOTAMUS BE?”を完全に無視した今江の翻訳に、戸惑いを覚える人もいるだろう。とはいえ現在、『ぼちぼちいこか』は「レギュラー版」「ミニ版」「日本語・英語併記版」でも出版されており、翻訳絵本の中でもロングセラー・ベストセラーの地位を獲得している。また、わたくしの考えを述べれば、やはりこの翻訳絵本は、日本社会に対する問題提起として大きな意味を持つ。
近代化の過程において日本では、標準語のみを正しい日本語だとみなす方針のもと、方言という言語表現も方言を使用する人びとの存在も脇へと追いやられた。もちろん昨今では、義務教育などでも、地域文化の独自性が積極的に取り上げられるようになっている。地域の言葉が人びとのルーツと結びついているという認識も、現在の日本社会においては共有されつつある。けれども、『ぼちぼちいこか』が出版された1980年当時は、まだ模索の段階であった。
このような歴史の中に置けば、今江祥智による絵本の翻訳の先進性が理解できるのではないだろうか。今江は『ぼちぼちいこか』の翻訳過程について、「いざ訳そうとすると、大阪弁でしか訳せませんでした」(「日本語・英語併記版」より)と記している。この言葉は、大阪弁の翻訳絵本を通して、言葉の多様性に気付き、読者自身の文化的ルーツについて思いをはせてほしいと願う、翻訳者からのメッセージだといえよう。「take it easy」のフレーズを、標準的な日本語「気楽に行こう」に置き換える作業は翻訳機械でも可能だ。しかし、自らのアイデンティティと深く結びついた言葉で、「take it easy」を訳すことは人間にしかできない。翻訳絵本『ぼちぼちいこか』は、AIなどの機械的な装置では代行しえない表現力が誰の中にも必ず存在しているということを、わたくしたちに教えてくれているのである。
「No」のバリエーション
先に“WHAT CAN A HIPPOPOTAMUS BE?”では、「No」が13回繰り返されると紹介したが、今江祥智の『ぼちぼちいこか』では、すべて異なる言語表現で訳し分けられている。消防士の場面では「No=なれへんかったわ」、船乗りの場面では「No=どうも こうも あらへん」、下記のピアニストの場面では「No=ありすぎやったな」のように。
今回のコラムの冒頭では就職活動を例に挙げたが、いうまでもなく社会生活を送るにあたっては、短所の伝え方や反論など、「No」を表現するスキルを身に付けておくことが不可欠である。ぜひ、今江祥智が生み出した13種類の言語表現を参考に、「No」のバリエーションを考えてみていただきたい。
複雑な構成体である絵本というメディアは、読者の状況や年齢に合わせた読み方ができる。特に、絵本の翻訳を通して、日本語という言語の特徴や自分自身の中の言葉を見つめ直すという読み方は、大人にとってこそふさわしいものだといえよう。「長所がときに短所になる」といった、ニュアンスが出せる「No」の訳し方もあれば、相手の感情を認めつつ、反対の意見を表明するための「No」の訳し方もある。ピアニストには適さないカバにかける「No」は、「ありすぎやったな」だけではないはずだ。
「ありすぎやったな」は、相手を一方的に拒絶するのではなく、対話のきっかけとなりうる表現である。絶妙で見事な「No」の翻訳だといえるが、これ以外の訳語―わたくしたちそれぞれの文化的ルーツに根ざした表現―を考える余地も残されている。人間の言葉が持つグラデーションは、AIにはまだまだ推し量れない豊かな可能性を有しているのではないだろうか。
第三回のコラムに向けて…『ぼちぼちいこか』は適職を探す物語だが、絵本というメディアは、人間と社会とのつながりについてさまざまな切り口から描いてきた。次回は、このような視点から、絵本の力を照らし出していきたいと考えている。
著者紹介
内藤寿子(ないとう・ひさこ)
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。2010年より駒澤大学に着任。現在、総合教育研究部日本文化部門教授。専門は日本文化。映画や雑誌、絵本など、いわゆる大衆メディアと呼ばれるものを題材に、近現代日本文化および日本社会について考察を行っている。