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AIが発展しても変わらない働き方・生き方とは何だろうか
-青山学院大学 香川秀太氏

香川秀太
著者
青山学院大学社会情報学部 教授
SHUTA KAGAWA

テクノロジーと働き方の変化

インターネットやクラウドサービスの普及により、時間や場所を超えた人々の間の情報共有が当たり前になった。さらに、昨今の生成AIや人工生命の発展により、自然生物としての人間の頭脳や肉体は、人工の技術の領域との境界線がますます薄れてきている。

人間の認知機能は、もはや個々人の頭や身体のなかに閉じていない。インターネットによって、オープンソースソフトウエアの開発やウィキペディアなどの集合知やピア・プロダクション(※1)が普及したことで、アリのように他の個体(他者)と流動的に連帯する機会が広がった。そこでは、記憶(知識)や思考は、単に個人内の営みではなく、集合的で分散知能的なものとして達成される。

そして、生成AIや人工生命、医療技術の発展によって、ますます脳や身体と、機械や人工物とのハイブリッド化が進み、いずれ「人間=サイボーグ」という図式が自明化するだろう。人々の実感レベルで、もはや「純粋に個人の能力や脳力といえるもの」など存在しなくなっていくはずである。

それでは、このように「人間と機械のハイブリッド化」が進む昨今の時代において、今後の生き方や働き方をどう考えればよいだろうか。

新しいテクノロジーと一体化する

一つは、当然ながら生成AI等のテクノロジーと上手に一体化していく必要がある。これは何も新しいことではない。古くから人間は、田畑を耕すには鋤や鍬が必要で、牛やヤギと生活し、家を建てるのに近隣の人々の手を借りてきた。

牛との生活を上手く営むことができなければ当時の生活が成立しなかったように、これからは、AIとの関係を上手く築けなければ今後の生活に支障さえ生じるようになっていく。しかしながら、テクノロジーの発展は際限がない。新しいものはすぐに古くなり、新たなものの話題へと取って代えられていく。

そこで、ここでは、「どう新たなテクノロジーを生かすか」という話題よりむしろ、人間‐機械のネットワーク化・ハイブリッド化が進んでもなお「変わらず(いや、ますます)求められるであろうもの」について考えてみたい。

技術革新による新たな生活スタイルを考えることの重要性はむろん否定すべくもないが、「変わらないもの」や「変えてはならないもの」について考えていくこともまた、価値観の多様化や革新的なテクノロジーの開発が進む一方で、「ではどう進めばよいのか」という方向性を見失いがちになっている現代人にとってますます必要なことではないか、という考えからである。

結論からいえば、それは、機械や他者には決して代替されえない「特異な個」としての主体性ではないだろうか。以下、哲学的な理論や調査データを織り交ぜなら考えていきたい。

今も昔も「変わらないもの」とは何だろうか

「代わりに働いてくれる道具」か「共に働いてくれる道具」か

さて、同じく技術革新による社会の大きな変革期にあった過去に遡ってみると、産業の急速な発展に伴い、「専門分化」や「機械化」が進んだ70年代、哲学者のイヴァン・イリイチ(1973)は、「人々は、自分の代わりに働いてくれる道具ではなく、自分とともに働いてくれる新しい道具を必要としている」ことを議論していた。そして、人々には「各人が持っているエネルギーと想像力を十分に引き出すような技術が必要」と主張した。

前者の「自分の代わりに働いてくれる道具」に関してイリイチは、「産業主義時代においては、一見人間側が機械を道具として利用しているようにみえるが実は機械(道具)ができない仕事を人間が埋め合わせているにすぎない」と警鐘を鳴らした。

経営者からすれば、機械化により人件費をかけない体制に組織を整えることは収益の確保につながる。イリイチの主張をわかりやすくするためにあえて極端な言い方をすれば、このような仕組みが中心になる世の中とは、「本当は機械にやらせたいところ、それができないから人間をやむを得ず雇用するような社会システム」といえる。

それに対して、イリイチは「コンヴィヴィアリティ(共愉)」という概念を示しながら、後者の「各人の可能性を引き出す道具」に希望を見出した。それは機械や階層上位者の指示に従う社会ではなく、他者に頼りながらも個々の自由が広がる社会、各人が自立的で創造的に交わりあうような社会である。

すなわち、個々人の主体性や特異性を抑圧するのではなく広げていく社会であり、それを可能にする技術と技術とのつながり方が必要とされる社会である。

「収入」か「主体性」か

ところで、仕事や生活のなかで人間の幸福にもっとも必要なものとは、より多くのお金(収益)になるのだろうか。筆者の研究室で行った調査の一部をとりあげてみたい(詳細は、石塚・鎌倉・杉村・香川、2023を参照されたい)。

この調査では、250名の社会人を対象にして、「他者との協力のもと、個々の特異性を発揮しながら能動的に働くこと」を「協同的主体性」と位置づけ、それと幸福度の関係をみるためのデータ収集(2021年実施)と分析(主に因子分析と相関分析)を実施した。その結果、まず、協同的主体性は次の三つの要素(因子)から成り立っていることがわかった。

  1. 「互いに相手の良さや特徴を生かそうとする職場である」「互いに自由にアイデアを出し合う機会がある」「一人一人の多様性や特徴を生かした、職場づくりを行っている」など、個々の特性が生かされながら、互助的な関係や心情面のケアを伴う前向きな協力関係がどの程度職場内で試みられているかをたずねる、22の質問項目からなる「職場内協同的主体志向」。
  2. 「自分(たち)の仕事が、地域づくりに役立っているという実感がある」「自分たちの仕事は人と自然との共生を図っている」など、仕事を通して職場外の地域や社会との連帯やそれらへの貢献がどの程度図られているかをたずねる、15項目から構成される「地域連帯・社会貢献志向」。
  3. 「他の人より少しでも優れた成果を出すことが、人生のなかで重要である」など、仕事での利益追求や競争意識をたずねる10項目からなる「競争・利益獲得志向」であった。

次に、こうして分類された協同的主体性に含まれる上記三つの変数と世帯年収、「主観的幸福感」(伊藤・相良・池田・川浦、2003)、仕事における活力や熱意といったポジティブな心理状態を意味する「ワークエンゲイジメント」(Shimazu、 Schaufeli、 & Kosugi、 2008より6項目抜粋)、ネガティブな心理状態である「憂うつ感」(小杉ら、2004より7項目抜粋)といった他の諸変数との相関関係を分析した。

結果の一部を表1と表2に、参考までに図1に世帯年収ごとの主観的幸福感を表したグラフも示す。なお、年齢と性別の影響による疑似相関の可能性を排除するため、偏相関分析の結果を示している(※2)。

※図表の出典:石塚祐也・鎌倉大樹・杉村謙・香川秀太(2023). 高年収の職場ほどコミュニティが弱く幸福度は低いのか /「協同的な主体性」を促す職場文化とwell-being との関連性. 青山社会情報研究, 15, 37-51.

研究によって質問内容や調査対象等、条件が各々異なるため単純比較はできないものの、従来の研究では、一定程度までは世帯年収が上がるほど幸福度も上がる傾向が示されることが多かった(※3)。しかし、この調査ではむしろ、表2や図1に示されている通り、高年収世帯の社会人ほど幸福感が下がる傾向がみられた。

表2より、高年収世帯の職場環境ほど、協同的主体志向や地域連帯・社会貢献志向が低くなる傾向がみられ、また表1より幸福度(やワークエンゲイジメント、憂うつ感)と、協同的主体志向や地域連帯・社会貢献志向との間でやや強い相関がみられることから、年収がいくら高くとも、協同しながら主体性を発揮するような機会にめぐまれなければ、人は幸福を感じにくくなる可能性が読み取れる。

もちろん、これをもって「職場が高年収であることが協同的主体性の構築を妨げる」とか、「高世帯年収者は協同行為に乏しい」というような単純な因果論的結論にはならないし、そのようなステレオタイプは避けるべきである。

ただし、たとえば、地方での互助的な自給自足生活を選択するなど、そもそも収益にあまり重きを置かない価値観を意識的に選んでいるような方々ではなくむしろ、資本主義経済のなかの一般的な日本国民においても、高年収だが低協同の環境より、年収が高くはなくとも協同的に特異性や主体性を発揮する環境にあることが幸福につながる可能性がうかがえる。

「貨幣経済」か「人間経済」か

次に、紀元前から現代にいたるまでの長大な経済史を論じた「負債論」(グレーバー、2011)から、主体性や特異性について考えてみたい。人類学者デヴィッド・グレーバーは、人類の経済には歴史的に、原理の異なる次の二つのシステムが存在してきたことを論じている。

  1. 富の蓄積を主たる関心とし、量的な等価交換に基づく「貨幣(商業)経済」
  2. 質的な人間関係を構築・維持・再編成する働きを担う「人間経済」である

歴史的には後者の人間経済が中心の時代の方が長い。しかし、近代化に伴う金融システムや資本主義経済の発展によって、いまや前者の貨幣経済が過度に肥大化している。グレーバーの議論のポイントは、貨幣経済と人間経済とで、人の存在が変わることである。

貨幣経済システムにおいては人間が数値、特に貨幣に置き換えられていく。数値化とは人間の抽象化であり、他のもの(お金や労働力、戦力、機械など)と交換可能な存在として位置づけられることを意味する。

極論をいえば、「あなたの代わりは(場合によっては、いくらでも)いる」の世界である。対して、人間経済は、人間のそもそもの交換不可能性に基づく。たとえば、我が子の「太郎」を隣人の「寛太」と取り換えても大きな問題はないと考える親はおそらくいないだろう。

親ないし養育者と子とは互いにとって具体的な固有の関係(生活文脈)と切り離せず、唯一特異な存在であって抽象化することはできない。そのような存在は貨幣や他人など別のものと本質的に不等価で交換できるものではない。身近な人の死への深い悲嘆も、生命が再現も代替も不可能であることが前提であるがゆえに生じる。

このように、互いに特異な存在であること、そのような存在として関わるありふれた日常経験が、そもそもの人間が生きるうえでの基盤であり根底にある。つまり、ある人間は他のものと決して置き換えられない個別具体的な存在であることを前提にした社会システムが人間経済である。

負債論の「負債」の意味も説明しておくと、グレーバーによれば、貨幣経済とは、ローンにみられるように「返済可能な負債」を前提とするシステムであり、対して人間経済は「返済不可能な永遠の負債」が前提のシステムとされる。

完済可能な負債とは、関係の断ち切りが可能な、ある種のドライな人間関係を可能にする(たとえば、借金の支払いが済めば、それ以上は融資者との付き合いがなくなるのは不自然なことではない)。対して、人間経済における、そもそも完済できない負債とは、互いの関係が断ち切られず永く続くことを前提とし、それを可能にするものである。

現代人にとっては、負債というと前者のような「返済可能なもの」をイメージすることが多いと思うが、彼はむしろ、人類史を眺めると後者の「完済を前提としない負債システム」の時代の方がはるかに長かったと主張している(※4)。

互いに特異な存在として関わること

以上のイリイチやグレーバーの議論、そして協同的主体性に関する調査結果を総合すると、いくら経済やビッグデータの収集・活用方法、そしてAIが発達しても、自分や他者が「他に代替不可能な(交換不可能な)存在」であると感じられなくなるような環境は、「人間の幸福を導かない」ということになるのかもしれない。

先ほどの筆者らのアンケート調査の結果でも、人が幸福を感じやすい職場環境は、協同的に(互いに)主体性が発揮しあえるような関係を大なり小なり形成していることが示唆されていた。

あくまで量的な調査結果ではあるものの、グレーバーの主張と重なる点がうかがえる(※5)。要するに、経済活動としての仕事においても、個々の特異性を生かしあうような関係、すなわち人間経済をできるだけ担保することが重要なのかもしれない。

そう考えれば、人類の歴史において、テクノロジーや経済が発展してもなお「変わらず求められるもの」とは、当たり前のように互いの特異性が感じられる、あるいは尊重される日常経験ということになる。これは先のイリイチの話とも重なる。

これからの人間と仕事の付き合い方

職場外でのプロボノ・ボランティアの経験

しかし、普段の自分の職場でこれが難しい場合はどうすればよいのだろうか。選択肢としては、職場環境の改善に取り組むことや転職すること、地方移住すること等が考えられるかもしれないが、ここでは、仕事と関連しつつも、社外での非営利の活動である「プロボノ」を例にあげてみたい。

プロボノは、自身のビジネススキルを生かしてNPOなどの社会課題に取り組む団体のサポートに取り組むボランティア活動である。たとえばWEBデザイナーとして生計を立てている社会人が仕事外でNPOのHPの立ち上げや改良に無償で取り組んだり、コンサルタントをしている社会人が経営的視点からNPOの組織改善を無償で支援したりするなどの事例があげられる。

筆者らは、「プロボノワーカー」と呼ばれるボランティア経験者13名を対象に、プロボノ活動を通した学びのプロセスを調査する目的でインタビューを行った。質的研究法を用いた分析を施した結果、対象者の人たちは、概ね次の学びのプロセスをたどっていた(詳細は、藤澤・香川、2020を参照されたい)。

自分への危機感や不安が起点

まず、彼らは、所属先の会社や肩書きに依存していた自分への危機感や自分の特異性が職場で感じられないことへの不安を契機に、プロボノに関心を持つようになっていた。彼らの多くは、当初「自分のビジネススキルが社外でも通用するのか」といった腕試しのつもりで臨む。

そこから実際にプロボノ活動を始めることで、普段職場で接することのない他の専門性を持つプロボノワーカーと異職種混合チームを組んだうえで、自分たちのスキルをNPOの人たちに無報酬で提供するという、普段の仕事にはない体験をする。

そこでは報酬がない分、互いの感情面が主軸になる。仕事なら多少モチベーションが低かったり嫌なことがあっても、「給与をもらっているから」とか「生活のため」とかで我慢するかもしれない。しかし、この種のボランティアは外的報酬がない。それゆえ、愉しさややりがいといった感情面に意識を向けざるを得ず、それらを促進・維持するための工夫があれこれ試みられるようになる。また、異分野の人と協同することで自分にはない異質な発想の仕方に驚き、視野が広がる経験もする。

そこから、日ごろの仕事で培った知識・技能、その他、性格や考え方など、互いの特異性を生かしあう関係を築こうとする。そして、そのような関係を築く過程で、当初の「腕試し」という自分中心の動機が変わっていき、たとえば普段の有償の仕事以上の成果物やサービスを相手に提供するほどモチベーションが高くなっていることなど、他者志向への自らの変化に驚いたりもする。

このようなプロボノの活動には、日ごろの職場では経験できない、貨幣経済システムから半ば解放されていくような体験が含まれているように思われる。もちろん、常にスムーズにそうなるわけではない。たとえば、日ごろの仕事で培った貨幣経済的な観念や自らの腕試しへのこだわりを強く維持することで困難が生じるケースもある。

この場合、プロボノワーカーはそれまで当たり前だった自分のビジネス感覚が揺さぶられて葛藤するが、それ自体もまた、プロボノを通した学びのプロセスの一種になるのである。

「コミュニティ万歳論」に陥らないこと

協同性やコミュニティ関係の重要性は、仕事に限らず、協同学習(コラボラティブ・ラーニング)が広がった教育業界しかり、さまざまな場でいわれるようになった。しかしながら、コミュニティ形成活動においても現実には様々な問題が生じているのも事実である。

たとえば、表では自由な発想や多様性を尊重する対話的な場と位置づけられている一方で、実際には伝統的な集団主義的規範や独特な(ローカルな)階層構造が存在していて、その間で捻じれが生じていたり、裏でマウントの取り合いや面倒なポジションの取り合いが生じたりするケース。また、メディア露出や承認欲求が過度に目的化してしまうケース、空中分解する団体、離脱する方々の事例に関する話題も少なからずある。

協同的に主体性を発揮する(とされている)コミュニティといえども、現代に欠けた側面を補う魅力的な可能性を生んでいる一方で、バラ色では決してないこともふまえておく必要があるだろう。

人間のサイボーグ化の先に

ここまで、イリイチの共愉論やグレーバーの負債論に触れながら、職場での協同的な主体性や職場外でのボランティア活動の調査内容をふまえて、ますます技術革新の進む時代において何が変わらず大事か、若干ではあるものの考えてきた。

今後、どんなテクノロジーが発展し浸透していくにせよ、人間のサイボーグ化がさらに進むにせよ、人が互いに特異な存在であると感じる機会を求めることが失われることはないのではなかろうか。

それが副業・複業・転職が当たり前の流動的な働き方なのか、終身雇用的な働き方なのか、AIやロボットに仕事を肩代わりしてもらってベーシックインカムで生活するような社会なのか…、それらの違い如何に関わらず。かつて、19世紀に機械化が進んで仕事を奪われたイギリスの職人たちが社会運動(ラッダイト運動)を起こした根幹には、食い扶持をなくすということだけでなく、特異性を発揮する機会の喪失感があったのではないか。

余談だが、面白いことにサイボーグとフェミニズムの関係について論じた生物哲学者のダナ・ハラウェイもまた、SF映画や小説をもとにした人間の近未来的なサイボーグ化とジェンダー論とを組み合わせながら、男性・女性という既存カテゴリーには単純に還元できない特異な存在としての人間‐非人間の関係性を論じている(ハラウェイ、1991)。

ハラウェイはその後、イヌという古くからの人間の伴侶種に視点を移して、人間との関係のなかで特異性を発揮するイヌ(との愛)について論じてもいる(ハラウェイ、2003)。

サイボーグ化が進んでも、あるいは男女の境界が薄れていっても、むしろそうなっていけばいくほど特異性への希求が強まっていくことが暗示されているようである。まるでその人であるかのように、あるいは自分ではあるが自分そのものではない、誰かしらの人物のコピーや分身を生むアバター技術や人工生命技術が発展・普及しても、むしろ特異性への問いはますます喚起されるのではなかろうか。

イリイチが主張した二つの道具システム(「各人のエネルギーと想像力を引き出す道具」システムと「道具の代わりに動く人間」システム)のうち、次々生まれる新しいテクノロジーがどちらを推進するかはまだわからない。現実の社会変化は、両者がより複雑に混在し、ときに葛藤や矛盾が生じるような形で進んでいくはずである。

そのとき、プロボノのように、一方の貨幣経済的側面(ビジネススキル)を他方の人間経済的側面と重ね転換することで新たな可能性が生まれるといったような事柄に注目すべきだろう。貨幣経済システムの吸引力は絶大で「持続可能性」はまさにビジネス化したが、それでもなお、古くから貫徹される「変わらず希求されるもの」に注目しながら、新たな働き方や生活スタイルを想像・創造していくことが必要ではないだろうか。


<引用文献>
赤川学(2019). ソーシャル・キャピタルと健康・幸福度の因果推論:ソーシャル・キャピタルは健康と幸福度を高めるといえるか, 東京大学文学部社会学研究室ワーキングペーバー, S-9.
藤澤理恵・香川秀太(2020). 仕事とボランティアを越境するプロボノの学び:贈与と交歓を志向する情動的ジョブ・クラフティング. 経営行動科学, 32(1), 29-46.
グレーバー, D.(2011)/酒井隆史(訳)(2016). 負債論:貨幣と暴力の5000年.以文社.
ハラウェイ,D.(1991)/高橋さき(訳)(2017). 猿と女とサイボーグ:自然の再発明. 青土社.
ハラウェイ,D.(2003)/永野文香(訳)(2013). 伴侶種宣言:犬と人の「重要な他者性」. 以文社.
Kahneman, K. & Deaton, A. (2010). High income improves evaluation of life but not emotional well-being. Psychological and cognitive sciences, 107(38), 16486-16493.
小杉正太郎・田中健吾・大塚泰正・種市康太郎・高田未里・河西真知子・米原奈緒(2004). 職場ストレススケール改訂版作成の試み(I):ストレッサー尺度・ストレス反応尺度・コーピング尺度の改訂, 産業ストレス研究, 11(3), 175-185.
イリイチ, I.(1973)/渡辺京二・渡辺梨佐(訳)(2015). コンヴィヴィアリティのための道具. ちくま学芸文庫.
石塚祐也・鎌倉大樹・杉村謙・香川秀太(2023). 高年収の職場ほどコミュニティが弱く幸福度は低いのか:「協同的な主体性」を促す職場文化とwell-being との関連性. 青山社会情報研究, 15, 37-51.
伊藤裕子・相良順子・池田政子・川浦康至(2003). 主観的幸福感尺度の作成と信頼性・妥当性の検討, 心理学研究, 74(3),276-281.
Shimazu, A., Schaufeli, W.B., Kosugi, S., et al (2008). Work engagement in Japan: Validation of the Japanese version of Utrecht Work Engagement Scale. Applied Psychology. An International Review 57, 510-523.
山田昌弘(2012). 「お金=幸福」という方程式は成り立つか:年収別幸せ実感調査. PRESIDENT 2012年5月14日号.


<参考資料>
※1:インターネット上で、不特定多数の人々が様々な知識や情報を集約・共有し、発展させ、新たなもの(コンテンツ、キャラクター、知識等)を共創すること。
※2:表1、2の値は偏相関係数。-(マイナス)は負の相関を示し、一方の変数が高くなるほど他方の変数は低くなる。+(表は記号なし)は正の相関を示し、一方が高ければ他方も高く、一方が低ければ他方も低くなる関係を示す。値が1に近づくほど相関は強くなる。たとえば、職場内協同的主体志向は、主観的幸福感と相関係数0.653でそれなりに強い正の相関がみられ、憂うつ感とは-0.543と負の相関がみられる。*のついた数値は統計的に意味のある(有意な)相関であることを示している。
※3:たとえば、有名なKahneman & Deaton(2010)の研究では、アメリカ人のうち世帯年収75000ドルまでは感情的幸福度が上昇するが、それ以上は頭打ちになることが示され、日本人を対象とした赤川(2019)や山田(2012)の調査等でも、幸福度が年収に比例することが示されている。
※4:ただし、貨幣経済システムの負債は、本来は「完済が前提」にもかかわらず、現代の金融資本主義の社会においては、実際は皆が間接的、直接的に常に何らかの借金を負っている(融資を受ける企業、個人の住宅ローンなど)。この矛盾についてグレーバーは批判的に議論している。
※5:厳密に言えば、先の筆者らの調査結果それ自体が数量データによるものであるため、これも貨幣経済システムの範疇にあるともいえる。実際、学術的には、数量データに基づく量的研究と、数を用いず分析を行う質的研究法との間に論争が存在する。ただし、ここでは話が煩雑になってしまうため、この種の話題には深入りせず進めている。


著者紹介
香川秀太(かがわ しゅうた)
青山学院大学社会情報学部 教授
筑波大学大学院人間総合科学研究科博士課程修了。博士(心理学)。グローバル資本主義後の社会システム(ポスト資本主義)に関する哲学や、コミュニティに関する学習理論に基づき、異質なジャンルや人々が結びつく越境過程や創造活動を研究。著書に『越境する対話と学び』(新曜社)、『パフォーマンス心理学入門』(新曜社)、『質的心理学辞典』(新曜社)、『Learning and Expanding with Activity Theory』(Cambridge University Press)他。

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