テレワークや副業、AI・自動化技術の進展、価値観の多様化など、私たちの働き方は大きな転換期に立っている。
そのような中で、「なぜ毎日、同じようなことを繰り返さないといけないのか…」「やりがいも達成感も感じられない…」「理想と現実の違いに絶望している…」というような疑問や悩みを持っている人もいるかもしれない。
こうした問いは、単なる労働環境の問題ではなく、人間の生き方そのものに関わる深いテーマだ。「働くこと」の本質をいつもと違う視点から見つめ直したいと思う。今回は、教育人間学や哲学を専門とする京都大学の西平名誉教授の回答から、私たちが抱える葛藤や迷いに対して、思索を深めていく。
西平 直(京都大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所副所長)
信州大学、東京都立大学、東京大学で学んだ後、立教大学講師、東京大学助教授、京都大学教授を経て、2022年より現職。京都大学名誉教授。専門は、教育人間学、死生学、哲学。稽古・修養・養生など日本の伝統思想を研究。著書に『世阿弥の稽古哲学』(東京大学出版会、2009 年)、『無心のダイナミズム』(岩波現代全書、2014 年)、『稽古の思想』・『修養の思想』・『養生の思想』(春秋社、2019・2020・2021年)、『守破離の思想』(岩波書店、2025年)など。
「意味」という言葉に振り回されないために
「…毎日、同じ時間に出社して、同じような業務をこなす。やりがいも達成感も感じられない。ただ虚しい時間が過ぎていく。」
ブルシット・ジョブ
「働く意味」が感じられない。そうした話を聴くたびに、私は「ブルシット・ジョブ(Bullshit Jobs)」というカタカナを思い出した。いわば、「意味のない仕事」である。
余談だが、十数年前、私に初めてこの言葉を教えてくれたのはフランスの女性である。「ブル」は両手をツノにして牡牛の真似をしてくれたから、わかった。しかし「シット」がわからない。というより、見るからに知的でエレガントな女性が「クソ」などという言葉を使うとは思ってもみなかったから、説明されても、何を言おうとしているのか、まったく分からなかった。その時の彼女の困った顔が忘れられない。分かった時には、一緒に笑ってしまった。
「牛の糞のように何の役にも立たない仕事」。提唱者デイヴィッド・グレーバー(David Graeber)の念頭にあったのは、たとえば、制度上の建前だけを取り繕う(書類の穴埋め作業のような)仕事。上司を立てるだけの(「おべっか」を使うだけの)仕事。もしくは、本来必要のない問題をわざわざ修正しているだけの仕事。
何も生み出さない。役に立っているように見えても、実は見せかけにすぎない。それをみんな知っている。自分も知っている。しかし止めることはできない。稼ぐためには仕方がない。
そうした仕事には喜びがない。やりがいも達成感もない。次第に自尊心(セルフ・リスペクト)を失ってゆく。グレーバーはそうした「無意味な労働」から人々が解放されることを期待した。
大いに共感したのだが、ある時、ふと考えた。そうした「無意味な労働」から解放された後、人は何をするのか。グレーバーは、人々が「意味ある仕事を始める」と考えていたようである。人々は「無意味な労働」から解放されたら、自分で納得できる、やりがいのある仕事を開始する。
しかし本当にそうか。「無意味な労働」から解放されると人は本当に「意味ある仕事」を開始するのか。むしろ、何が「意味ある仕事」なのか分からなくなり、迷い始めるのではないか。
あるいは、そもそも《無意味な労働》と《意味ある仕事》の区別は、それほど明確ではないのではないか。同じ仕事が、ある時は「まるで無意味」に感じられ、ある時には「やりがいを感じるきっかけ」にもなる。
仕事の「意味」は一面的な基準では決まらない。生産性とか、社会的な貢献とか、特定の側面だけ見れば、(牛の糞のように)何の役にも立たないように見える仕事も、たとえば、組織全体の中で見れば、(インド文化圏では牛糞が貴重な燃料であったように)大切な意味を持っている。
意味が《ある》か《ない》か。実はその区別は固定していなかった。ところが、言葉が独り歩きし始める。そして私たちは、知らないうちに、その「言葉の区切り」に縛られてしまう(私たちの感覚はその区切りに沿って世界を経験してしまう)。
本当は、流れる雲のように、つながっていた。時々形を変えていた。もともとは固定された区切りなどなかったのだが、言葉が世界を区切ってしまう。そして、《ある》か《ない》か、暴力的に、区別する。どちらか一方に、無理やり、振り分ける。私たちは、知らないうちに、自分の仕事が「意味」があるか、ないか、どちらか一方に、振り分けてしまうのではないか。
エッセンシャル・ワーカー
もうひとつ、「エッセンシャル・ワーカー(Essential worker)」という言葉も思い出した。「生活のために必要な仕事」とでも言うのだろうか。コロナの時期によく耳にした。
コロナ禍の行動制限の中でも「エッセンシャル・ワーカー」は仕事を続けてくれた。各種メディアも、「活躍して下さっている」と表現した。それは、あの時期、誰もが感じた正直な気持ちであったのだろう。
しかし本当は、平常時にも、そうした仕事は(注目されないまま)続いている。その大変な苦労の上に、私たちの「ふつう」の暮らしが成り立っている。電車は動いて当たり前、学校は子どもの世話をして当たり前、病院は治療をして当たり前。そうした「当たり前」が、実は、見えないところで、多くの人の大変な努力によって支えられていた。その事実に、この言葉は、光を当てたことになる。
「エッセンシャル」な仕事は「意味がある」。当事者である「エッセンシャル・ワーカー」の方々も、あらためて、その仕事の大切さを実感したのではないか。
しかし、コロナ禍が通り過ぎると、この言葉も聞かれなくなった。そして、また「エッセンシャル」な仕事が、見えにくくなった。今はあの時ほどの感謝がない。もしかすると、当事者たちも、あの頃ほどには、自分の仕事に「手ごたえ」を感じなくなっているのかもしれない。
不要不急の仕事
その問題も大きいのだが、今回思い出したのは、この《エッセンシャルな仕事》の対となって使われた《不要不急な仕事》という言葉である。「不要不急な場合は外出を控えるように」という文脈で使われた「不要不急な仕事」。
では何が「不要不急」であったのか。よく分からぬまま、映画も音楽も、美術館も観光業も、スポーツ観戦も、活動を止めていた。学校は、中途半端な形で、活動を制限した。そうした仕事は「生きるために直接必要ではない」と判断されたのだろう。気がつくと、すべての活動が止まっていた(自粛したのか、停止させられたのか、いつか丁寧に調べてみたいと思っている)。
私自身は、その時期、大学院の授業を担当していた。ゼミも論文指導も「不要不急」と言われると、そんな気もした。論文指導をやめても、生きるためには困らない。では、院生指導は、無くてもよいものか。
そんなことを考えているうちに、突然「オンライン」が始まり、何とか事態を切り抜けたのだが、あの時、「自分の仕事にどういう意味があるのか」、足元が揺らいだことは確かである。正直に言えば、実はいつ割れてもおかしくない薄氷の上を歩いていた我が身に気づいて、血の気が引いた(スポーツ選手や舞台芸術家たちはより深刻であったと聞く)。
「エッセンシャルな仕事」が貴重であることはよく分かる。そのおかげで社会が成り立っていることもよく分かる。しかしだからと言って「不要不急な仕事」は重要ではないのか。
あるいは、こう考えたらどうか。「エッセンシャルな仕事」の重要性は、誰の目にも見える。その人たちがいなくなったら、社会の機能が止まってしまう。それに比べて、「不要不急な仕事」は、その領域の人にとっては大切だが、それ以外の人にとっては、無くても困らない。
しかし、どちらも大切なのではないか。互いに違った意味を持っている。「どちらが大切か」という問いは、問い自体に無理がある。そうした問いは、ものの見方を窮屈にする。
もっとも、「平時」に戻った今となっては、「不要不急な(スポーツや芸術のような)仕事」が脚光を浴び過ぎ、「エッセンシャルな仕事」が、また、見えにくくなった。それは悔しい。どちらも同じだけ重要である。中身は異なるが、どちらも、同じだけ大切にしたい。互いが互いを尊敬するような関係がいい。
とすれば、ますます《意味がある》と《意味がない》の線引きは難しくなる。むしろ、「ある」か「ない」かという、二項対立の(白黒はっきりさせる)発想が、この領域には、ふさわしくない。目が粗すぎる。
あるいは、「働く意味」という言葉自体が、すでに目が粗すぎるのかもしれない。「意味」という言葉に、私たちは、重要な意味を与えすぎ、振り回されているだけなのかもしれない。
夢や理想をめぐる問い
「…学生時代は夢や理想があった。社会人になってからは、現実に追われる日々。」
夢や理想
こうした言葉もよく耳にする。昔は、夢や理想があった。しかし本当に、学生時代には「夢や理想」があったか。実際は学生時代も「現実に追われていた」のではないか。そして、大学の勉強に意味があるのか、わからなくなっていた。あるいは、その頃も、「昔は夢があったのに」と語っていたのではないか。
常套句が悪いとは思わない。むしろ、とりあえず常套句に助けてもらって、自分の思いを表現してみることは大切なのだが、気をつけないと、その常套句に騙されてしまう。「夢や理想」という言葉で話が止まってしまう。それが悔しい。
忙しくても、「夢や理想」を持つことはできるはずである。たとえ短い時間でも「夢見る時間」を持つことは可能である。
むしろ、どうやら、大きな仕事をしている人ほど、(たとえば、早朝)一人静かに「夢見る時間」を大切にしているようである。時間に追われ、とてもそうした余裕はないように見える人に限って、実は、「夢や理想」の時間を創り出している。あるいは、そうした時間を確保した時の方が、仕事は順調に進むというのである。
私自身の経験でも、仕事が順調に進んでいた時は、(後から振り返ってみると)自分にそうした時間を提供できていた。では、「夢見る時間」があれば必ず順調か、と言われると、そう簡単でもないのだが、とにかく両者の間には何らかの関連がある。多くの場合、「夢や理想」の時間を大切にしている時の方が、調子がいい、流れがいい。
夢見る時間と自己実現
しかし、「夢ばかり追いかける」タイプの人もいる。「夢見る時間」は得意なのだが、実際の仕事となると、元気が出ない。「使い物にならない」とダメ出しされてしまう。そうした人にも「夢や理想」は必要か。
答えに窮するのだが、私はやはり必要であると思う。その代わり、この場合も「夢や理想」という言葉に用心する。常套句としての「夢や理想」に振り回されるのではなく、今の自分にとって必要な「夢」や「理想」を求める。
糸の切れた風船ではない。糸を伸ばしてゆくのだが、その根元は手放さない。必ず「今の自分」に帰ってくる風船である。
そう思ってみれば、先の「早朝」という時間帯は、実は、重要であったことになる。大きな仕事をしている人たちは、夢見る時間を「早朝」に持っていた。仕事を始める前、ということは、その時間には、初めから「終わり」があった。好きなだけ夢見るのではない。限られた時間の中で、特別な時間を創り出していた。
とすれば、もしかすると「夢見る時間」が大切なのではなくて、「夢見る時間」と「仕事の時間」を往復することが大切なのかもしれない。「夢見る時間」に遊び(風船に乗り)、そして、そこから戻り、「仕事」を開始する(着地する)。どちらか一方ではない。行ったり来たり(離れてゆき、また、戻ってくる)。その両方向が大切なのではないか。
両手を叩くと音がする。手が離れていては、音が出ない。しかし、両手がくっついていても音は出ない。離れていた手が、一瞬、出会い、パチンと弾ける。その時、いい音になる。
「仕事」も同じではないか。離れてしまうのではないが、巻き込まれたままでもない。一度離れ、あらためて、出会い直す。その時パチンと弾ける。その「新鮮さ」が弾みになる(モメンタムになる)。そうした「新鮮さ」をいかに自分の暮らしの中に創り出すか。
「自己実現」とは、実は、この「新鮮さ」のことではないか。そんな予感がするのだが、その話はもう少し考えてからにする。