はじめに
現代社会において、働く女性が直面する問題の一つに「婚姻時の改姓」がある。婚姻に伴い夫婦が同氏にすることが民法で定められているため、現状の日本の法律では必要な手続きであるが、これが職場での認知度や信頼関係の構築といった点で、キャリアに与える影響は少なくない。
特に日本においては婚姻時に改姓する女性の割合は非常に高く、約95%の女性が夫の姓を選択しているという現状がある。そのため、改姓問題は単なる個人の問題にとどまらず、社会全体のジェンダー平等にも関わる重要な課題だといえる。
本記事では、これまでに連載した「働く女性の改姓問題」シリーズの内容をまとめ、働く女性が直面する改姓問題の現状と課題、そして、現在対策として検討されている「旧姓の通称利用の拡大」ならびに「選択的夫婦別姓制度の導入」についてあらためて解説するとともに、筆者がこの連載を通じて得た気づきについて述べていきたい。
改姓がキャリアに与える影響
改姓によるキャリアの分断
働く女性にとってキャリアに大きな影響として、まず、改姓によるキャリアの分断が挙げられる。結婚に伴い姓を変更することで、職場での認知度や信頼関係が一時的に低下する可能性がある。たとえば、名刺やメールアドレスの変更に伴い、長年築いてきた人脈が一時的に失われ、これにより、仕事の効率や成果に影響を及ぼすことがある。
また、専門職やクリエイティブな職業に従事する女性は業績を示す成果物(作品やレポート・原稿等)を名前とともに発表しているようなケースでは、過去の業績や実績が新しい姓に紐づけられないために、キャリアの継続性が損なわれ、自身のブランドやプロフェッショナルなアイデンティティに影響を与えることもある。
改姓によって生じる手続きの煩雑さ
さらに、改姓に伴う手続きの煩雑さも問題である。銀行口座やクレジットカード、運転免許証など、多くの公的・私的な書類の変更手続きが必要となる。これにより、時間と労力がかかり、仕事に集中できない期間が生じる点も広い意味では「キャリアへの影響」といえるだろう。
キャリアの分断を防ぐ方略としての「旧姓の通称利用」
企業における「旧姓の通称利用」の取り扱い
このような改姓に伴うキャリアの分断を避けるために、一部の企業では、旧姓の通称利用が認められている。しかし、その実態は一様でなく、企業規模によって異なり、中小企業ほど低い傾向にある。
第1回の記事でも紹介したが、内閣府の調査によると、旧姓の通称利用を認めている企業は全体で49.2%(「認めている(45.7%)」と「条件付きで認めている(3.5%)」の合算)と半数程度で、さらに、旧姓利用が認められている範囲についても限定的であるようだ。
先述したような名刺やメールアドレス変更に伴う手続きの煩雑さを避けるために、一定の範囲で旧姓使用が認められているが、税や社会保険、預貯金の口座やクレジットカード、携帯電話の契約といった公的な書類や公式な場面ではやはり戸籍上の姓を使用する必要がある。
さらに、旧姓と新姓の使い分けが必要となるため、使い分ける負担が増加し、氏の識別特定機能が混乱することがある。
転職する際の「旧姓の通称利用」の取り扱い
同一の職場で働き続ける場合は旧姓の通称利用が部分的とはいえ認められている企業もあるが、転職をする場合は、公的に認められた名前、つまり「戸籍上の名前」を使用することが一般的である。これにより、旧姓で築いたキャリアが新しい職場で認識されにくくなることがある。特に、クリエイティブ職や専門職の場合、旧姓を通称名として使用したいというニーズもあるだろう。
第2回の記事でインタビューしたキャリアアドバイザーの解説によると、転職に際して提出が必要となる書類については、戸籍上の名前を使用する必要があるが、もし、求職者が入社後に旧姓の通称利用を継続したいと望んだ場合は、転職先にあらかじめ相談しておくことで利用できる可能性はあるようだ。 いずれにしても「公の氏名」はやはり戸籍上の氏名という扱いであることに変わりはない。
議論されている「選択的夫婦別姓」
「夫婦同氏制度」は世界的には珍しい
婚姻時の改姓に関してはこれまで「キャリアへの影響」という観点で述べてきたが、婚姻時に改姓を強制すること自体が、そもそも個人の人格権を損なうものであるとして改善を求める声もある。
実は、法律によって夫婦同氏制度を定めている国は世界でも珍しく、多くの国では夫婦がそれぞれの姓を保持するか、同姓か別姓かを選択できることが一般的である。
<参考>平成22年に法務省が実施した調査によると以下のとおりだ。
⑴ 夫婦同氏と夫婦別氏の選択を認めている国として、アメリカ合衆国(ニューヨーク州の例)、イギリス、ドイツ、ロシア
⑵ 夫婦別氏を原則とする国として、カナダ(ケベック州の例)、韓国、中華人民共和国、フランス
⑶ 結婚の際に夫の氏は変わらず、妻が結合氏となる国として、イタリア
法務省が把握する限りでは、結婚後に夫婦のいずれかの氏を選択しなければならないとする制度を採用している国は、日本だけである。
国連の人権条約機関(自由権規約、女性差別撤廃条約等)は改姓を強制することは人格権の侵害という共通認識を持っており、国連の女性差別撤廃委員会は日本政府に対して4回も改善勧告を出している。
法的に「夫婦同氏制度」が定められていることで婚姻時に夫婦のどちらかが改姓を強制されるという人格権の侵害という懸念に加えて、世界でもジェンダーギャップの大きい日本社会においては、多くの場合に女性側が改姓しているという実態が重なり、より問題視されているのだろう。
そこで、議論されてきたのが「選択的夫婦別姓制度」の導入である。
「選択的夫婦別姓制度」とは
法務省によると、「選択的夫婦別姓制度」(法務省HP上は「選択的夫婦別氏制度」)とは、夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の氏を称することを認める制度である、と説明されている。
選択的夫婦別姓制度について語られる際に、現行の「夫婦同氏制度」と対立する形で「別姓」を推奨するようなイメージを持たれているケースがみられるがそういうものではない。あくまで、夫婦が望む場合に同姓にするか、別姓にするかを選択できる制度であるのだ。
本シリーズの問題意識である「改姓によるキャリアの分断」という視点からみても、この制度は、改姓によるキャリアの分断や手続きの煩雑さを避けるための有効な手段として注目されている。選択的夫婦別姓制度の導入により、働く女性が結婚後も旧姓を使用し続けることが可能となり、キャリアの継続性が保たれるといえる。
前章で働く女性のなかで「旧姓の通称利用」が拡がりつつも、公的な場面では戸籍上の氏名が求められるために、旧姓と新姓を使い分けることで氏の識別特定機能が混乱することがあると述べたが、特にグローバルに活躍する女性で深刻な問題となっている。
海外では「旧姓の通称利用」という概念がないため、パスポートに記載されている氏とビジネスネームとして利用している旧姓の氏が異なるために、本人だと認識されず、トラブルになる事例が報告されている。現在、希望すればパスポートに旧姓を併記することはできるが、ICチップには旧姓が併記されていないこともありトラブルを回避できていない現状がある。
経団連はこうした働く女性が直面するさまざまな不自由さに触れて2024年6月18日に「選択的夫婦別姓制度の早期実現を求める提言」を発表している。
法学の研究者からみた「選択的夫婦別姓」の意義
「選択的夫婦別姓制度」を導入することの意義について第3回のインタビュー記事で話をうかがった二宮先生は以下のように述べた。
氏名は人格権の対象であり、自己のアイデンティティに関わる大切な問題である。
(現行の民法では)生来の氏を名乗るためには、婚姻をあきらめるか、婚姻するためにどちらか一方が生来の氏を変更するという過酷な二者択一を夫婦同氏制度は迫るが、氏の変更を強制されない自由、婚姻の自由が保障される必要があるはずだ。
改姓はキャリアを含めた個人のアイデンティティに関わる問題。積年の課題を解決し選択的夫婦別氏制度の導入を目指して─立命館大学名誉教授 二宮周平氏(マイナビキャリアリサーチラボ)
夫婦別姓を認めない民法などの規定によって法律上の婚姻ができず精神的苦痛を負ったとして国に賠償を求めた訴訟も起こっており、賠償を認めない点で裁判官5人全員の意見が一致して上告は棄却されたが、最高裁の裁判官が「意見」として 「規定は違憲」と述べた記録も残っている。
さいごに
本連載企画は当初、「働く女性のキャリアに婚姻時の改姓がどのような影響を及ぼすか」という問題意識で始めたものだったが、「婚姻時の改姓」は、キャリアを分断するという以上の問題をはらんでいるということが理解できた。さらにいうと、なぜ筆者自身が「働く女性の問題」として自然に受け止めていたのか、そもそも自分の持つ価値観が偏っていたことにも気づかされる結果となった。
一方で、現行の民法で定められた「夫婦同氏制度」については、法制審議会が、選択的夫婦別氏制度を含む民法改正案要綱を法務大臣に答申した1996年2月からすでに29年経った今も、法案が国会に提出されたことはない、という現状がある。
その点について、二宮先生は「歴史的な背景」に基づく、強固なイデオロギーによる反対意見があると指摘している。戦後、「家制度」は廃止され、氏は家の呼称ではなく個人の呼称となったが、「家族は同じ氏を称する」という当時の習わしを踏襲したことや、高度経済成長期から続く「夫は仕事、妻は家庭」といういわゆる伝統的性別役割分業型の家族が標準的とされてきたことの価値観が根強く残っていることは否めない。
今回実施した連載を通じて、これまで当たり前だと思ってきた社会の枠組みが、実は国際的にみると珍しい事例であること、また、国連をはじめとした世界の視点で改善されるべき状況だと考えられているという事実を知れたことは大きな学びとなった。
併せて、現行の「夫婦同氏制度」は、婚姻時に夫婦のどちらかが改姓を強制するという人格権の侵害としての懸念だけではなく、特に日本社会では、改姓による負担を多くの場合で女性が引き受けることになっているために、「女性(だけ)の問題」のように扱われていることへの違和感にも気づかされた。
婚姻後にどの氏を名乗るかについてさまざまな意見があることは当たり前であるし、「夫婦は同姓でありたい」という意見も当然守られるべきだろう。問題なのは、それぞれが希望する形を選べないという現状なのだ。夫婦で同姓にしたい人、別姓にしたい人、それぞれが自分たちの望む形で夫婦、家族の在り方を実現できる社会が望まれているのだろう。
本連載企画はここで終了となるが、今後もこの議論の行く末を自分事として見守っていきたい。
マイナビキャリアリサーチラボ 主任研究員 東郷 こずえ